新歩道橋754回

2010年11月20日更新



 巨大なビルほどもある波が、大音響で崩れ落ちて来る。それに打ちのめされながら、クルーザーは眼の前の巨大な海の穴、つまりビルみたいに波がそそり立つために出来たすり鉢状の空間へ突っ込んでいく。天を見上げた形の船首が、次には奈落の底めざして落ちるのだ。その繰り返しがどのくらい続いたろう。暴風雨の中の航海である。僕は甲板の大きな箱の陰で、それにかけられた太いロープにしがみついている。しかし、頼みの綱も、滝の雨の中を箱ごと、ずりずりとずれはじめた。
 《ここで死ぬのか。こんなはずじゃなかったのに…》
 僕は歯をくいしばって耐えた。荒れる海に翻弄される恐怖に耐え、少しオーバーに言えばそんな運命に耐えた。
 昭和61年か62年の夏だと思う。「宇宙戦艦ヤマト」のプロデューサー西崎義展に誘われて出かけたクルーズ。伊豆七島あたりでのんびりして、海の幸をたらふく食べよう、給仕する女の子たちも乗せておくからさ…と言うのに、あっさり乗った。仕事の都合で油壺からの出船は見送り、調布から新島へ、セスナ機で飛んで彼らに合流する。
 「海ってのも、いいねえ、ずいぶん久しぶりだよ」
 と、相好を崩して出迎えたのは阿久悠と息子の太郎君、それに宮川泰。「ヤマト」の主題歌を書いたいわばお仲間だ。
 翌日、新島から三宅島へ向かう途中で、出っくわしたのが冒頭の惨状である。
 「少し荒れるかも知れないけど、大丈夫、大丈夫…」
 屈強のクルーが口々にそう言う。足裏に吸盤でもついていそうな身軽さで立ち働く彼らも、そのうち無口になり、やがて必死の形相になった。九死に一生を乗り切って、船は三宅島に着く。岸壁に叩きつけられそうな船を、その寸前に身をひるがえらせた運転は、西崎の手腕だった。命からがらの僕らを、島の男たちの怒声が迎えた。
 「命が惜しくねえのか。俺たちの仲間の船だってみんな、下田に避難した。暴風雨の警報だって出てるのに、一体何を考えてるんだ!」
 ことほどさように、西崎義展は剣呑な言動多めの男だった。昨今物情騒動の尖閣諸島を視察に、石原慎太郎都知事が出かけた時も、陰に彼が居た。知事一行が乗ったのが西崎の船。ふだんはフィリピンに係留してある軍艦みたいな奴で、海賊対策のために武装していると本人が話していた。その後彼は銃刀法違反、大量の薬物所持の現行犯逮捕などで服役、「ヤマト」の著作権問題で松本零士氏と係争するなどの問題を起こす。
 美意識も生活感覚も、人並みはずれていて、長いつきあいの彼を、僕はしばしば違う星の人のように感じた。しかし「ヤマト」のプロデューサーとしての情熱は、見事なほどに一途で熱かった。作品の構想を話す時、いつも彼は涙ながらになった。獄中からの手紙も、ヤマト制作で再起すると、熱に浮かされるようだった。刑期を終えた西崎は、17年越しの夢を実現、劇場版「宇宙戦艦ヤマト 復活編」を作った。
 その西崎が11月7日午後、小笠原諸島の父島で海に転落死した。船は彼の会社が持つ「YAMATO」(485㌧、9人乗り組)で、6日夜父島の二見港に入り、7日は港内で試験航海を続けていたと言う。小笠原諸島海上保安署は誤って転落した事故と見ている。
 昭和9年生まれの75才、1年と少し年上の彼を悼もうとしても、話し相手の阿久悠や宮川泰はとうに鬼籍に入っている。
 《「ヤマト」に殉じて、大好きな海で逝ったのだ。それがせめてもの慰めか》
 僕はぼんやりと今、自宅眼下の葉山の海を眺めている。対岸に富士、右手に江の島、左手に伊豆大島があり、大小の釣り船やヨットが行き来して、それを冬の陽差しが照らす。絵に書いたように平穏な海が、昔のあの暴風雨の海や、3日前に西崎をのみ込んだ海と同じなことが、当たり前なのに何だかとても妙に不思議な心地がする。

週刊ミュージック・リポート