新歩道橋756回

2010年12月5日更新



 あけみちゃんてば、あけみちゃん、再婚しようよ天国で…
 星野哲郎もすごい詞を残していったものである。タイトルが「かすみ草の歌」で、あけみちゃんはもちろん16年前に亡くなった愛妻朱実さんを指す。詞の中で彼女は天国に居り、天国を追われた星野は地獄にいる。そのあけみちゃんが差し出す白い手が、歌の一番ではわずか5センチ、二番では3ミリ、三番では1ミリと近づいても、
 アワワワ届かない、届かない…
 と、星野の切ない思いがにじり寄るばかり…。
 11月19日昼、青山葬儀所で営まれた星野の葬儀で、水前寺清子がこれを読み上げた。弟子を代表する弔辞の中でのことだが、
 「歌えって言ってくれた詞だけど、先生、歌えっこないじゃないですか、こんな詞…」
 「そう言ったら先生、それじゃ僕に何事かあった時に、読めって言ったじゃないですか、だから私、約束だから…」
 水前寺の声は涙で途切れがちで、僕も涙を止めようがなくなった。
 《そりゃあ、弔辞をやってくれとは言ったよ。15才からのつき合いをうんと実感的にってな。だけどチータ、お前がこんな涙の爆弾を持ち込むとは思わなかったよ…》
 僕は小きざみに肩がふるえる水前寺の後ろ姿に、星野家親族の席の一隅からそう心の中で語りかけたものだ。
 「胸に大きな穴があいてしまった…」
 葬儀委員長の船村徹は、霊前に語りかけて弔辞にした。昭和32年、横浜港開港100年記念の歌詞募集が二人の出会いで、船村25才、星野32才。それから半世紀、ゴールデンコンビとして数多くのヒット曲を生み、作曲と作詞の世界を代表する双璧となっての別れである。
 「ものには書かずに、少ししゃべって、それでいいな」
 事前にそうポツンと念を押した彼は、星野が荼毘に付された桐ヶ谷斎場で、どんな思いで盟友の骨を拾ったろう?
 3本の弔辞の最後は、星野の故郷山口県周防大島を代表した柳居俊学氏。県議会の副議長という要職にあるが、古くからの星野信奉者。下積みの歌手に脚光を!と、星野が自前のイベント「えん歌蚤の市」を始めた時は、島の東和町の町長として陣頭指揮をとった。島にある星野哲郎記念館も、彼の主導で作られた経緯がある。星野の訃報が届いてすぐ、その記念館には祭壇が設けられ、島の人々が大勢弔問に訪れていることが、彼から霊前に報告された。
 通夜に1100人、葬儀に800人が焼香して、星野の葬儀は彼の大きな実績と厚い人望とを証明した。現場で働いたスタッフは、メーカー各社の若手から作詩家協会、ジャスラック、著作家連合や星野門下生の桜澄舎、星野の薫陶を得た哲の会などのメンバーが約100人。
 『粛々とした中にも、星野の人柄にふさわしく、情のこもった野辺送りにする』
 が、僕らの総意だった。
 2日おいて21日「よこはま・たそがれ」から40年を記念、磯子CCでゴルフコンペを開いた五木ひろしは、顔を見るなり、
 「囲み取材で求められてね。やってよかったのかどうか…」
 と、懸念を口にした。星野の通夜で焼香したあと、星野作品の「心」をアカペラで歌ったのが、ことのほか大きく報じられてのことだ。
 「よかったと思うよ」
 と、僕は即答した。平成2年、星野は五木にこの歌を書いたことを「長年の夢が実った」と大喜びし、後に、
 「人間の所有物のうちで心ほど純粋な部品はない。あらゆる歌謡も、その純な心と動物的な肉体との葛藤を書いたものではないか、さすればこの作品は、根本のテーマに挑戦したことになる」
 と書き残している。星野は五木に直球を投げた。その心に報いてのアカペラなら、五木が気にやむことは何もないと僕は思っている。

週刊ミュージック・リポート