新歩道橋757回

2010年12月17日更新


 
 また「舟唄」や「雨の慕情」について、ひとくさりしゃべって来た。TBSが年末に放送する〝レコ大関連番組〟で使うそうな。「雨の慕情」は八代亜紀のレコード大賞受賞曲である。先行した「舟唄」と追っかけて出した「港町絶唱」の3作品を僕がプロデュースした。30年も前の話だ。
 「で、どのくらい儲かったんですか?」
 インタビュー役のディレクターが無遠慮に聞く。
 「一銭も…」
 と答えたら、相手は虚を衝かれた顔つきになった。
 「だって俺、スポーツニッポン新聞社の文化部長だからね、そのころ…」
 「でも、それとこれとは別、当然の報酬じゃないですか?」
 「しかしねえ、ギャランティされてないから、その後この世界にずっと居られたのよ。記者と制作者の二足のわらじで、儲けガッポリ…では、音楽界の友人たちが許すはずはないもの…」
 「そういうもんですか。でも、何かいいことあったでしょ?」
 「うん、テイチクの南口社長に、銀座の高級クラブへ連れていってもらったな、何回か…」
 南口重治さん、彼が八代のゼネラル・プロデューサーだった。八代作品のマンネリ化を憂い、それを変化させるために、阿久悠を紹介することを頼まれた。絵にかいたみたいなトップダウン企画。それに現場が反発したために、お鉢が僕に回って来たいきさつがあった。それにしても、アルコールはやらない社長が端然と座して、
 「どうぞ、ゆっくりやりましょう…」
 には、僕も参ったが、ホステスさんたちも策に窮した感があった。
 南口重治社長は今年7月23日に亡くなった。身内で密葬のみという話に、大阪スポニチの松枝忠信が反応、坂本スミ子やアイ・ジョージらと連名で花を届けるというので、それに乗せてもらった。
 ボーチェアンジェリカが歌っていた「忘れな草をあなたに」を、菅原洋一のレパートリーに推したことがある。実はこの曲と越路吹雪の「芽生えてそして」がそのころの僕の愛唱歌。うっとりするくらいきれいな詞とメロディーを、やくざに崩して女性の耳許で歌うと、それなりの効果があった。小沢音楽事務所の社長小沢惇が面白がって、2曲とも菅原でレコーディングする。
 「忘れな草…」の作曲者江口浩司の通夜に出かけたのは2月1日。小沢惇は入院加療中で顔を見せず、3月13日に亡くなった。
 《きれいな曲だからこそ、やくざに崩すと味が出る》
 という僕の主張は、菅原の芸風に合わず不発、僕は江口の霊前で謝らずにすんだ。小沢が愛した歌手浅川マキが1月、仕事仲間でケンカ仲間だった元東芝音工の田村広治が8月に亡くなっている。5日の田村の通夜で僕らは
 「小沢もこれで、淋しくないだろう…」
 と囁き合った。
 5月に吉岡治、6月に北海道・中標津で牧野昭一、7月には石井好子を見送った。それぞれ親交の中のエピソードが山ほどある人たちである。10月に前田利明の葬儀にかけつけ、11月にはついに、星野哲郎を見送ることになる。体調不良のため内々で入退院を繰り返していたから、僕は深夜のファックスや早朝の電話に飛び起きる日々を送っていた。
 吉岡は親友、星野は師である。断じて弔問客の一人になる訳にはいかない。だとすれば葬送の儀式のすべてを手伝う。こういう別れの場面に、ほどほどなんてことがあるはずがない。一報を聞いた時「ズンッ!」と、地面が沈んだように感じた動揺をそのまま、僕は走り回った――。
 「新歩道橋」も、今年は今回でおしまいである。手帳を繰って年間のスケジュールを見返すと、辛い別ればかりが妙に目立つ。長い知遇の中で教えを受けた人、歌づくりなどで組んだ同志ばかりだ。この原稿を校正している時にスポニチの先輩宇佐美周祐記者の訃報が届いた。11月26日に悪性リンパ腫で亡くなり、葬儀は親族だけで済ませたと言う。いろんな人たちを見送った僕は今、時代そのものがグルリと回転して、大きく変わっていく強すぎる実感に少しげんなりしている。 

週刊ミュージック・リポート