新歩道橋759回

2011年1月28日更新



 ノレンが揺れた気配がする。「ン?」と目を凝らすと、そのすき間から拳銃の銃口がこちらを狙っている。「何者だ!」と問う僕、狙撃手がニヤリと顔を出した。俳優真砂皓太、彼はこれから大老井伊直弼を暗殺に出かける水戸浪士のリーダーだ。1月名古屋御園座の川中美幸公演「たか女爛漫」2幕3場への出番。楽屋ノレンの内側から「行ってらっしゃい!」と僕が声を掛ける。「行って来ます!」と応じながら、真砂はもうスタスタと廊下を早足で、舞台へ…。
 松平健の側近で芸達者の50代後半、真砂は陽気で、面倒見のいいベテランである。僕は彼を〝料亭真砂〟の大将と呼ぶ。若いころ料理人の修業もした腕で、僕らの昼食を取り仕切るためだ。何しろカレーを作ると、3日前から煮込むこだわり派。それが出番前に野菜を刻んでサラダは作るわ、京風おでんはじめいろんな煮物を作るわ、魚は煮るわ、肉は焼くわの大奮闘。本格的な出番は2幕1場、水戸藩京留守居役・鵜飼吉左右衛門の長ゼリフだが、浪士を兼ねて殺陣にも2度参加する。
 「あの出番がなければ、メニューがもっと豊富になるのに…」
 などと、僕らはへらず口をたたく。連日、プロの美味を堪能するだけで、僕に出来るのはせいぜい、食器運びくらいなものなのだが…。
 楽屋の同室者は安藤一人で、名は「かずひと」と読む。ネットで検索すれば判るが、売れっ子の子役からずっとこの世界で頑張っている40代後半。井伊家の家士から彦根藩の藩士、捕方、水戸浪士などの何役もこなす。1、2幕を通じて出番は八カ所。その都度衣裳を替え、出たり入ったりで楽屋に落ち着く暇がない。その手際の良さは見事で、そのすき間で僕は、小道具のあれこれ、化粧、着付けの手順などを教えて貰う。
 僕の出番は1幕4場Bの一カ所だけで、舞台上の滞在時間は5分前後。大垣宿の旅籠・美濃屋の主をやり、直弼の側室・松山愛佳が乱入するのに手を焼いたり、ヒロインたかの川中美幸と相手役・長野主膳の松村雄基とからんだり…。それでも頭がい骨の裏がジンジンするくらいの高揚感は体験する。昼夜2回公演の日は午前9時30分すぎに楽屋入り、退出するのは午後8時15分すぎ。楽屋滞在時間の方が圧倒的に長いが、見聞するものは山ほど。舞台の上だけが仕事ではないことに、合点がいったりする。
 「板について来たねえ。こっちがドキドキしなくなった」
 と、感想が優しいのはサンミュージック関連を卒業することになった福田時雄氏。
 「すっかり役者ですな。旅籠のおやじの雰囲気は十分に出てますわ」
 と、おだてるのはもず唱平。
 「何はともあれ、最高の老後でしょう」
 と笑うのはたかたかしと、一緒に来た境弘邦氏。
 「川中さんって見事に女優さんなのね」
 と、彼女の舞台を初めて見た感想だけを語ったのは、船村徹夫人の佳子さん。
 「それにしても、踊りまでやるとは思いませんでしたよ」
 と、呆れたのはスポニチの後輩元尾哲也だ。ショーのフィナーレに参加、大勢の出演者の最前列で「艶冶な気分」に大乗りするせい。そのいでたちが浴衣の尻っぱしょりで、下着の〝きまた〟をちらつかせ、ねじり鉢巻で両手の鳴る子をカチャカチャ…である。下町のお祭りで見かけるオッチャンふうだが、由緒正しい尻っぱしょりの仕方は、安藤一人直伝。
 僕の楽屋は4階の402号室。右隣りには〝大将〟の真砂に田井宏明、綿引大介が居り、左側の奥に陣取っているのは女優さんや女性ダンサーたち。出番を終えて三々五々、戻って来る彼女たちの会話が弾み、廊下ですれ違うたびの小声のあいさつや笑顔が艶っぽい。舞台裏全体が明るくなごやかなのは、川中一座の特徴だろう。
 レコード界の苦況をよそに、ぬけぬけと浮かれて…と、読者諸兄姉には叱られそうだが「一度やったら役者はやめられない」という言い伝えは、真実その通り…という報告である。

週刊ミュージック・リポート