流行歌の黄金時代を演出し、支えた顔ぶれがズラリと揃った。2月1日夜の霞ヶ関ビル35階で開かれた、サンミュージックの福田時雄さんの卒業を祝う会。何しろ主人公の福田さんが80才、傘寿のおめでただから、参会者の年齢層もかなり高い。それが歓談するさまはウォーッとパワフルで、時ならぬ同窓会ふう…。
演歌、歌謡曲からフォークにロック、ニューミュージックなど、流行歌のジャンルの端から端までが、一斉に花咲いたのが1970年代。巷に歌があふれ、老若男女それぞれが、大いに楽しんだそのころを、僕らは流行歌の黄金時代と呼ぶ。会場を見回せば往年のエネルギッシュさそのままに、口角泡を飛ばす猛者ばかりだ。レコード、プロダクション、メディアなどの世界の現役幹部からOBに作詞家、作曲家たち。それが愛称「フクちゃん」の人徳を軸に、一夜の歓を尽くす――。
少年時代、戸板にアメを並べて売ったという。母親と一緒に銀座で靴磨きをやったともいう。引き揚げ家族が体験した戦後、みんな似たように貧しく苦しい生活に追われた時代の一人として、福田さんはやがてキャバレーのバンドのボーヤになり、ドラマーに育った。お定まりの進駐軍キャンプ回りをやり、灰田勝彦のバンドで叩き、西郷輝彦のバックが最後。音楽が4ビートから8ビートに変わった時期に、福田さんは進化より変化を求めてマネジャー業に転進した。
そんな経歴を福田氏は、あの柔和な笑顔のまま、淡々と他人事みたいに話した。それ以降は会場のみんなが知っての通りの仕事ぶり。誰にも変わらぬ態度で接し、去る者は追わず来る者はこばまず、芸能プロダクションの創成期を闘って今日にいたる。俗に生き馬の眼を抜くこの世界で大きな実績を残しながら、人格者として終始した。苦労が身について生きたのか。
どこの世界でも同じだが、最も育てにくく、居そうで居ないのが実力派の「ナンバー2」だ。有為の人材の場合は野心がその席を温めさせず、「二番手でいいさ」と達観するタイプは、軟弱なままでその役割を果たせない。そういう意味ではそこいら中、名ばかり形ばかりのナンバー2揃いである。そんな中で福田さんは唯一無二、稀有のナンバー2になった。
サンミュージックの相沢秀禎会長は、福田さんを終生、名誉顧問として遇すると話した。プロダクションを立ち上げた当初からの、二人の友情と絆の固さが見てとれた。長い年月、相沢さんあっての福田さん、福田さんあっての相沢さんの二人三脚だったのだろう。最高のナンバー2が生まれるために必要不可欠なのは、ナンバー1の信頼と度量なのかも知れない。
「相さんは、僕が家を建てる時も、ずいぶん世話をしてくれた。大病をした時も、病院へ運んでくれさえした」
と福田さんが話した。その時僕は、
《福田さんを理想的なナンバー2に育てた第一の要素は、彼自身が持つ感謝の念の深さと熱さだ》
と悟った。「感謝」はそれを感じる人次第のものである。例えどんなに些細なことでも「有難い」と長く思えるか「当たり前」として「すぐ忘れるか」では、天地の差が出来、人間の器の大小が決まる。感謝される側はしばしば、好意的に動いた一件を忘れる。ためにしたことではないせいだが、それを覚えていて「面倒見たよ」「借しがあるぞ」は下の下だろう。「善根をほどこす」なんて表現は第三者の評価。大仰に言えば、神は感謝の思いに宿り、情のこまやかさは、感謝を忘れない側に生まれるものだろう。
僕らが福田さんの会で見たものは、相沢さんと福田さんの、感謝の応酬だった。そしてみんなが、
「いい会だったねえ」
と口々に言ったのは、そんな福田さんの80年のどこかに、少しでもかかわることが出来た実感が嬉しかったせいだろう。
この混迷してせちがらいご時世の中で、珍しく僕らはひととき〝性善説の宴〟に参加出来たことになろうか?
