新歩道橋763回

2011年2月25日更新



 祭壇の前に立った老人は、ぴんと背筋を伸ばして手ぶらだった。星野哲郎への弔辞を述べるのだが、奉書もメモも持っていない。
 《大丈夫かなあ…》
 と、僕はあらぬ心配をする。彼に先立っての弔辞は二井関成山口県知事と柳居俊学山口県議会副議長。二人とも用意した書状を読み上げていた。2月13日の日曜日正午過ぎから、星野の故郷・山口県周防大島の東和総合センターで開かれた「星野哲郎先生お別れ会」でのこと。
 僕の杞憂を吹き飛ばしたのは木元清人氏。老人と書くのが申し訳ない元気さで、とうとうと星野との縁を語った。旧制安下庄(あげのしょう)中学、現在の周防大島高校の同級生というから、星野と同じ85才。それが三度も「さて!」の一言を使って、話の文脈を展開させるのも見事なものだ。切磋琢磨した少年期、お互いの進路を見守った青年期、詩人と地元の教育者としての交流、他の同級生を含めての交歓、頑張っているのはついに彼一人になっての感慨…。
 《えらいもんだなあ…》
 感じ入った僕は、夕刻からの関係者慰労の会でも、木元氏と膝づめになった。戦後の彼の紆余曲折から、大島の三大珍味まで。もがり(オオヘビガイ)せい(カメノテ)ひざらがいという貝3種がそれで、
 「星野は喜んでよく食べた。しかし、このごろの連中はもう、そんな貝がいることすら知らんよ」
 と図解までしながら木元氏は言う。ちなみに…と、この島育ちの柳居副議長に聞いてみたら「もがり」以外は初耳の答え。
 「ほらね…」
 と得意げに笑う木元氏の少年みたいな眼に、僕は元気だったころの星野と同じ色を見たものだ。
 東京での星野の葬儀は、昨年11月19日、青山葬儀場で営まれた。その時参列した椎木巧周防大島町長が、
 「いずれ島でもきちんと…」
 と、約束して帰って、それが実現したのが今回の会。町と町議会と教育委員会の主催で、椅子席が450、立ったままの人が100人近くも参加、人口1万9000余の島をあげての催しになった。
 星野の知遇を得て47年、僕の周防大島通いは10数回に及ぶ。彼が主宰したイベント「全日本えん歌蚤の市」だけでも8回やっているし、星野哲郎記念館づくりのプロデュースもした。星野と島の人々の相思相愛ぶりは、その都度見聞している。星野は海に憧れて育ち、やがて船に乗るが大病を得て挫折、4年の闘病から再起、作詞家への模索を、全部この島で体験した。島と島の人々への感謝の念が深い。だから事あるごとに、物心両面で島へ献身して来た。島の人々は、歌謡史を飾る詩人の存在を誇りとし、その心尽くしへの感謝を忘れない…。
 そんな交流があってこその送る会は、いわば二度目の葬儀で、稀有の出来事と言えるだろう。星野はこの島の小中学校8校分の校歌を書いていた。その一つ城山小学校のものは、昭和31年、星野がまだ無名のころに、一般公募で採用されたと言う。それがその学校の子供たちの斉唱で披露された。平易で簡潔で、情にあふれた詞が、今でも新鮮でピカピカしていた。
 《彼が目指した境地が、もうこの作品からはっきり現われている。彼が遺した歌はこういうふうに、古い日本人の良さを描きながら、いつも新しい気持ちで歌いつがれて行くのだろう》
 そう思うと僕は目頭が熱くなるのを抑えきれなかった。記念館が出来て3年め、星野の長男有近真澄氏の好意で生まれた制度「星野哲郎スカラシップ」は、もう15人の子供たちに奨学金を贈っている。
 送る会当日、晴れ男の星野の催しらしく島は好天に恵まれたが、前日は雪、翌日は雨で寒かった。連日30度の常夏、タイ・ホアヒンでのゴルフ三昧、小西会6日間のツアーから戻ったばかりの僕は、温度差に閉口したが、気分は最高だった。その昂揚をそのまま21日から、3月明治座川中美幸公演のけいこに入る。今度はまた、びっくりするくらい〝いい役〟を貰っているのだ!

週刊ミュージック・リポート