新歩道橋776回

2011年6月24日更新



 NHKへ呼ばれた。ラジオの「昭和歌謡ショー」の録音。7月放送の4回分(木曜夜9時30分から)をしゃべった。5、6月に放送した5本くらいの続編、テーマは勝手に「船村徹の時代」「吉田正の時代」「星野哲郎の時代」「吉岡治の時代」とした。戦後・都会と地方に分断された青春、復興・都会調歌謡曲の誕生、高度経済成長期・弱者目線の応援歌、バブルとその崩壊・後ろ向きの美学…と、4人の世界が時系列ではまる。
 「よく知ってますね、いろいろ…」
 などと持ち上げられる。
 「いやあ、それだけ年をとってるってだけのことで…」
 などと、こちらは満更でもない。別に何をどう勉強したという話ではない。歌謡少年がそのまんま大きくなって、青年から壮年、老年…と、歌好きで来ちまった半生。気をつけるのは口調に〝知ったかぶり〟の嫌味が出ないようにすること。
 疎開して茨城で育った。終戦直後はあちこちの村で素人演芸会が開かれた。復員したての若い衆が、無念の酒でどら声張り上げる。それが戦前、戦中のヒット曲を、僕の脳裡に刷り込んだ。中学までの歌謡曲の仕込みはNHK「今週の明星」や「昼のいこい」KRラジオの「歌のない歌謡曲」あたり。そのうち作詞家髙野公男は同郷で、作曲家船村徹は隣りの栃木…と知り、高校時代はこのコンビを追跡して、いっぱしの〝通〟になった。
 有線放送の「昭和ちゃんねる」でも月1回、もう4年もしゃべっている。NHKは5曲入り正味25分だが、こちらは45曲前後フルで流して、その間にしゃべるからほぼ4時間。それが月曜にエンドレスで流れる。知ってることだけでは間に合わないから、多少は調べものもするが、それは時代背景、社会のできごとなど。それとこれとを突き合わせて、ちぎっては投げちぎっては投げ…の与太話大会だ。
 昭和31年に、アルバイトのボーヤで拾われたスポーツニッポンで、7年後の38年に取材記者に取り立てられた。こっそりのど自慢番組に出ているのがバレ、社長命令でビクター音楽学院の1期生になったのがバイト時代前後。スポニチも相当に牧歌的だった時期だが、その経歴!?を生かせと配置されたのが音楽担当記者。さっそく船村徹に会い、星野哲郎のしっぽにつかまる。以後この2人が歌やもの書きの師となるが「先生」と呼ぶのはスポニチを63才で卒業して以後のこと。
 「この曲もそうか」「あれもこの人の作曲か」
 驚嘆したのは、古賀政男の催しや吉田正のリサイタルを取材してのこと。即座に客席で、雑多に刷り込まれたおびただしいヒット曲が整列し直す。コンピュータのキイを1個叩いて、ガチャガチャガチャのポン!みたいなものだ。後に石坂まさをと暗誦大会をやって、その成果を再確認した。石坂もまた呆れるくらいの〝生きた歌本〟だった。
 吉田正、船村徹、星野哲郎の知遇を受け、昭和40年に「知りたくないの」でなかにし礼、45年に「ざんげの値打ちもない」で阿久悠に会う。2人ともブレイク直前からの親交となったが、双方にある暗黙裡のライバル意識にも驚いた。それを逆手にとって、阿久作詞、なかにし作曲、菅原洋一の歌で「ロング・ロング・ア・ゴー」をプロデュースしたのは昭和63年のこと。吉岡治に会ったのは「大阪しぐれ」で彼が吹っ切れる前夜。フォーク全盛の中で歌謡曲に懐疑的になった彼のこだわりは、何をどうメッセージ出来るのか?だったろうか。
 NHK「昭和歌謡ショー」の企画・制作は島田政男アナ。僕より20才も年下だが、こと流行歌に関しては年齢差を全く感じさせない歌好きである。一時立川談志に弟子入りしたとかで、西村小楽天や北条竜美ら往年の司会者の名調子にドップリ。自分のこの番組でも最後の1曲は、工夫を凝らしたナレーションをイントロに乗せる。その顔をしみじみと見ながら、マイクの陰で僕は、
 「ビョーキだね、あんたも…」
 と冷やかすことにしている。
 有線の「昭和ちゃんねる」のお相手は歌手の林あさ美。これはもう孫くらいの年だから、戦後の歌などチンプンカンプン。やむなく僕は、したり顔のおじいちゃんに甘んじている。

週刊ミュージック・リポート