新歩道橋777回

2011年7月8日更新



 客電が落ちる。音楽がスタートする。これから始まる芝居の、いわば前奏曲。それが軽やかなのは、ドラマの雰囲気を伝えて、決して深刻劇!?が始まる訳ではないと知らせる。音楽が盛り上がるのはクライマックスへの予感、
 《あれっ!?》
 と気づくのは、最初から客席に手拍子が盛んなこと。まだ緞帳が上がらぬうちから…というのは初めて見た。6月の明治座公演。主演は氷川きよし、演しものは「銭形平次・きよしの平次青春編」で、原作が野村胡堂、脚本が堀越真、演出が北村文典。どうやらファンは、芝居が始まる前から、気分大いに前のめりなのだ。
 平次は18才、神田明神下の長屋で母親(大空真弓)と母一人子一人の暮らし。定職も持たぬいわばニートで、子供たちと遊んでばかりだから周囲が気をもんでいる。それがふとしたはずみで三千両の盗難事件にでっくわし、捜査の手伝いをはじめた…。そんな設定が〝青春編〟のいわれで、例の投げ銭だけはもう、しっかり身についている。
 《なるほど…》
 と、僕は客席でニヤニヤした。おなじみ平次の女房お静が、今回は母親の名前になり、それでは平次と恋仲の女性が登場するかと言えば、それもない。つまり、あえて平次の青春編にした訳は、色恋沙汰、愛情問題一切抜き…が狙いと読み取れる。企画・監修が長良じゅんと神林義弘。氷川の育ての親である長良グループ首脳が、独特で強烈な氷川ファンの心情をおもんばかった結果だろうか――。
 氷川はほとんど地のままで平次をやったように見える。芝居だからああもしよう、こうもしようというテダテは用いない。巧く演じようなどという野心は持たぬ風情だから、平次が率直な好青年になった。共演の大空や横内正、山田スミ子、瀬川菊之丞、中田博久らはそのペースに合わせ、西山浩司、脇知弘、太川陽介らが氷川の周囲をかためた。
 演出の北村を僕は、親愛の情と敬意をこめて〝ブンテンさん〟と呼ぶ。何度も芝居の手ほどきを受けているが、こと細かで的確、目からウロコが落ちる思いがしばしばの人だ。氷川の場合もおそらく、舞台上の動き、立ち位置などをあれこれ指示したろうが、必要不可欠の部分に止めて、決めるところは決める作戦。氷川も〝決め方〟の呼吸は、歌手として十分身につけていたろう。
 捕物帖が明るめの青春ドラマになり、お話がスタスタ進んだ楽しさが、氷川の4年ぶり2度目の長期公演。彼ふうな娯楽の作り方になって、二部はいつものコンサートである。本人も「明るく元気で、少しファンタスティックに」と話すにぎやかさで、奇抜な衣装も色とりどり。「雪の渡り鳥」「妻恋道中」「旅姿三人男」「東京五輪音頭」など、やたらに古い曲も出て来た。
 おばあちゃんに主婦、その娘…と、三代にわたるファン層としても、懐メロふう感慨がもてるのかどうか…とあやぶみながら、
 《別に、その辺にこだわることもないのか…》
 と、僕は思い直す。ファンはみんな、氷川の一挙手一投足にうっとりしているので、ネタが古かろうが新しかろうが、お構いなしの楽しみ方。客席は一面にペンライトの海で、芝居の開幕前の手拍子同様、申し合わせたように規則正しく、きちんと揺れる。氷川ファンは、彼のデビュー以後11年のつき合いで、自分たちをそういうふうに訓練してしまった。
 多くの歌手たちは、ヒット曲を積み重ねて独特の世界を作り、それに成功した者だけが、スターの座につく。それに較べればアイドルは、作品をとっかかりに独自のキャラクターを構築、何でもありの境地を作る。もちろんヒット曲も必要だが、それは彼〝らしさ〟彼女〝らしさ〟でキャラを強化し、増幅させるためのパーツとして作用する。そういう意味で言えば氷川は、幾つもの世代の強力な支持を得、健全さを特色とした類希れなアイドルの地位を確保しているのかも知れない。

週刊ミュージック・リポート