新歩道橋780回

2011年8月5日更新



 この夏は富士山がよく見える。眼下の葉山の海の対岸、シルエットで浮かぶ富士は濃紺で、それが海と空の青と天然のグラデーションを作る。あしらわれているのは白い雲のかけらが幾つか…。
 《この景色を、もう一度見せたかった…》
 ふと、石井好子の笑顔を思い出す。僕が葉山へ転居して4年。岬みたいな地区の突端で、海と向き合って暮らす日々を話すと、彼女はとても喜んだ。少女時代をここで過ごしたと言う。戦後もしばらく暮らして、思い出話があれこれ。昨年も入院中の彼女を見舞って、そんなひとときを過ごした。涼しくなって退院したら葉山を案内する。日影茶屋の昔ふうな倉がバーになってるので一杯やろう。米寿のお祝いの相談もそこでしよう…。そんな約束に肯いた彼女は、それから5日後に亡くなった。7月17日、その最初の祥月命日が過ぎた。
 眼の前の海から花火が上がる。大きな連続音と閃光に、小西風は後ずさり、血相を変えて遁走した。「風」は「ふう」と読む5才になる猫、彼女の種族は音にひどく敏感なのだ。
 「何だよ、今まで遊んでくれと大騒ぎしてたのに…」
 ベランダに出て一杯…の友人が笑う。7月27日午後7時30分、一夜順延された葉山海岸花火大会が始まった。前日も曇りだが、花火をやめるような天候ではなかった。
 《風が強いせいか?》
 と思ったら、問題は波。目の先400㍍ほど、名島付近の台船が打ち上げ場所なのだが、それを浮かべるには波が荒すぎたらしいのだ。
 「祝雷」に始まって「宇宙への旅」「彩色の牡丹」「柳に万花」「潮騒の光」「百花繚乱」「夜空の天使」「葉山の花園」なんて奴が、次々に夜空を彩る。「水中孔雀」と名づけた何発かは、海中から斜めに吹き上げる仕掛け。花火の構図が縦長で立体的に変わるから、防波堤に群がる見物衆がどよめいた。
 「そうですか、石井好子さんねえ…」
 友人二人が相づちをうつ。かつてスポーツニッポン新聞の同僚だった男たち。一人は藤沢に住む格闘技担当記者、一人は平塚から来たカメラマンだが、双方石井を身近に感じている。シャンソンコンクールを石井音楽事務所とスポニチが共催、加藤登紀子や堀内美希ら何人かのプロを育てた。その都度社内が大騒ぎだから、担当外でも決して他人事ではなかった。
 花火のはるか上空を、あかりを点滅させながら旅客機がゆっくりと太平洋を目指す。
 「ヨーロッパへでも行くんかねえ」
 ブラジル産の焼酎?ピンガを水割りにして、かなり飲んだから冗談もポンポン。いい年のおっちゃん3人が空を見上げながら、話はまた石井に戻る。彼女の形見分けで、僕は四角い絵皿を貰った。アルフレッド・ハウゼが来日公演をした時に、土産に持って来たもので、ハンブルグの港の風景が描かれている。貰って間もなくから、出版社にしばらく預けた。石井の身近にあった由緒やいわれのある品を集めて、写真集を作るのだそうな。
 「そりゃあ、なんでも鑑定団ものだ…」
 また笑う友人に、石井とハウゼの親交、ハウゼ楽団の楽器が全部なくなった時の大騒ぎ、ハウゼと共演「汐風の中で」という曲を貰い、菅原洋一のレコード大賞歌唱賞受賞のテコにした話などをたて続けにする。そんな酔漢三人を遠目に、好奇心旺盛な割に臆病な「風(ふう)」は、リビングの隅にうずくまったままだ。
 一夜あけて28日、僕はこの原稿をレコード特信出版社にFAX送信して、中野で開かれる藤間哲郎を送る会に出かける。30日には元東芝音工の宣伝マンで、プランニング・インターナショナルを興した田村廣治の一周忌法要。8月1日は阿久悠の4回目の祥月命日だ。夏は僕にとって、見送った大切な人や友人を、心しずめて偲ぶ季節になった。そう言えば自分の母親の七回忌も近い。さて、お清めの一杯はどこでやるか! 

週刊ミュージック・リポート