新歩道橋785回

2011年9月23日更新


 
 「おひさしぶりです。鳥山浩二です」
 と名乗られて、当方はウッと詰まった。声音、口調に聞き覚えはない。芸名にも心当たりがない。
 《待てよ!?》
 受話器を左手に持ち替えながら、大急ぎで記憶をかき回す。過去のどこかで世話になったか、世話をしたかだろうが、やっぱり思い出せない。歌謡界でメシを食って48年、出会った人の数は見当もつかないし、第一僕も年が年だ…。
 「10年くらい前に、歌を聞いて貰ったんですが、お前、これは暗過ぎるよって言われて…」
 おお!と、どうやらピントが合った。確かあれは「蛾」というタイトルで、「おいおい、夜の蝶の、その下の蛾かよ…」なんて冗談を言った気もする。
 「何だ、船橋浩二じゃないか! 最初からそう言ってくれよ」
 彼と僕との間の40何年かが吹っ飛ぶ。昭和39年10月「俺だって君だって」でデビューした少年で作詞が星野哲郎、作曲が叶弦大のデビュー作。水前寺清子とほぼ同期…と、この辺のデータは後々の、話の中で出て来た。
 しぶとく頑張っていたのだ。10年前に聞いた「蛾」を、詞を変えて「みちくさ人生」とし、レコーディングして草の根キャンペーンを続けた。伝説のプロデューサー馬渕玄三氏に、
 「うん、いい曲だな」
 と一言もらった自作のメロディーに、男の後半生を賭けたそうな。
 「おいでよ」
 と声をかけたのは6月の御園座。相手が名古屋在住の都合だが、僕の楽屋で〝夢をもう一度〟を熱っぽくとつとつと語り、芝居は見ずに帰った。その後、彼の夢はあらぬ方へふくらんだらしく、自作を棚に上げて吹き込みしたがったのが「雪国の女(ひと)」遠藤実作詞作曲で、昭和39年に春日八郎が歌った旧作。
 「判った、判った、いい曲だよ確かに…」
 と僕は、この話をクラウンの曷川正光プロデューサーに持ち込む。はばかりながら僕の記者生活は、昭和38年創立以来ずっと、通い詰めてのクラウン育ちである。西郷輝彦、水前寺清子らの、まるで修学旅行みたいな賑いのスターパレードに同行して、遊んでいたよな仕事をしていたような。その若者たちの群れに、船橋もちゃんと居たのだから、その縁をつなぎ直すのが最善の策…。
 8月、スタジオに入って聞いた船橋の歌は、見事に技巧派に変わっていた。その後長かった彼の、歌い手ぐらしの反映だろう。声を矯め、差す手引く手の息まじり、節を凝らして想いを伝える。酒場めぐりのキャンペーンで、膝つき合わせて歌えば、確かに客はうっとりしたろう。
 「だけどお前、さあ…」
 と、曷川プロデューサーともども、乱暴に言い渡し、あれこれ提案しながら、僕らは往年の船橋節を復元した。この種技巧派は時おり、ひとりよがりに埋没するのを避ける。それにあのころの船橋の歌は、よく響く温かい声がのびのびと、おおらかだった――。
 「結局さあ、歌は声味とその陰にある人間味が勝負どころだよな」
 僕らと彼はそういうふうに納得する。船橋の歌を復元すると言っても、簡単に昔に戻るはずはない。率直に声をひびかせるスケール感と、彼のその後の人生の実りや翳りが色に出れば、それでいいのだ。
 それにしても、あんなに将来を嘱望された若手が、なぜ急に第一線から消えたのか? 鳥山浩二から昔の名前の船橋浩二に戻すことにした本人に聞いて、大笑いをした。18才でポッと売れてその気になった船橋が、師匠の馬渕玄三氏に大目玉をくらったのは、新宿の馬券売り場でバッタリ出会ってのこと。しまった!とホゾを噛んだ船橋が、売り場を代えた錦糸町でまた会った。「未成年の分際で何たること。もう俺のところへは来るな!」と、クビになったのだという。
 「歌は人間味だ」と前に書いた。彼の人生の〝その後〟がどんな味わいを作ったか?は、聞いてのお楽しみ。CD発売は10月26日である。

週刊ミュージック・リポート