新歩道橋791回

2011年12月2日更新


 
 ♪そうよ、みんなつらいの、うわべは何もなさそうに、生きるふりをしてても…
 と川中美幸が歌う。「夢」という作品で、11月明治座の彼女の公演のショーの冒頭。歌詞は、
 ♪夜にひとりで泣くの…
 と続き、だから人は夢を探すのだと訴える。作詞が阿久悠、作曲が三木たかし。東日本大震災以後、国難に心晴れぬ人々の胸中を、言い当てていそうに聞こえる。
 平成9年に出した「麗人麗歌」のカップリング曲、
 《えらい歌を書き遺していたものだ…》
 親交のあった阿久の顔を思い浮かべながら、僕はそう思う。三木の曲がこれまた、いかにもいかにもの三木らしさで、感じ入るのは二人が、ビジネスの歌づくりにもきちんと、本音の一部を書き込んでいた手応えだ。
 阿久はあの顔で、あの態度物腰で、常に毅然として生きた。〝怪物〟と呼ばれる質と量の仕事をやってのけたが、ついに芸能界ずれせぬ身の処し方を通した。しかし彼も人の子、うわべはそうであっても、深夜ひとりきりの時間には、生身の懊悩や煩悶に向き合う時がなかったはずはない。
 1977年のことだが、彼のシングル年間売上げが、1000万枚を超え、それを祝うパーティーを僕らが組み立てた。劇画の上村一夫、プロデューサーの渋谷森久と一緒に「阿久さんは口出し無用!!」と決めつけ、ストリッパーを出すの、ニューハーフを勢揃いさせるのと、およそ彼に似合わない案を出し合った。それらが一発でオジャンになったのは、阿久からの一言、
 「光栄な会だからかみさんも息子も出席させる。お願いは一つだけ、父親としての威厳を損いたくない」――。
 今僕は、彼の没後発見された原稿が岩波書店から出版された「無冠の父」を読んでいる。阿久とのつき合いは40年近かったが、その間彼が、父について語ることはほとんどなかった。宮崎県出身で、淡路島に駐在した警官で、阿久はそこで生まれ、父の転勤で島内を何カ所か移り住んだ…という程度しか知らない。
 少年期に彼は太平洋戦争の敗戦を体験する。それ以前、警官は国家権力の先端に居た。それ以後はただの一市井人に戻る。その時期、その周辺に起こった価値観と環境との激変が、阿久少年にどう影響したか、僕はそれを聞いたことがなかった。1才違いの僕に、おもんばかりがあったせいかも知れない。しかし「無冠の父」の主人公・深沢武吉は、「剣道が強く柔道もやり、気合術にもたけた」武骨な人で、そんな時代の変化にも超然と、おのが生き方を貫いた人として描かれていた。阿久はどうやらこの父の「何の冠も持たなかった巡査の諦観と威厳」を〝男の生き方の規範〟として、受け継いだのだと、合点がいった。
 話は川中に戻る。僕はこの人に誘われて明治座で初舞台を踏み、今年で丸5年になる。1年に2回の一カ月公演に参加、それぞれに半月のけいこ期間を加えると、もう15カ月も日々密着した暮らしをした勘定になる。その間僕は舞台の表裏、かなりプライベートな時間も含めて、彼女が不機嫌になったり怒ったりしたのを一度も見たことがない。公私ともに川中はいつも、人の和と笑顔の輪の中心にいるのだ。一度僕が、
 「一人になった深夜、辛さ悲しさ口惜しさをもてあまして、バスタオルを食いちぎったりするんじゃないの?」
 と聞いたことがある。即座に返った答えは、
 「ボス、いつ見たの?それを…」
 だった。その当意即妙に、僕は二の句がつげなかった。
 人はいつも、奥歯を噛みしめて生きるものだと、僕は思っている。そしてそれをうわべに出すのは恥ずべきことだと考えている。しかし、決心をしてもそれを貫くことはむずかしい。阿久の剛と陰、川中の柔と陽と対照的ではあるが、二人には共通する〝ある覚悟〟を僕は感じる。ストイックという言葉は、阿久には似合い、川中にはそぐわない気もするのだが…。

週刊ミュージック・リポート