新歩道橋792回

2011年12月2日更新


 
 「新宿2丁目店にいます。あの辺を通ったら、気をつけて下さい。きっと僕の声が聞こえます」
 屈託のない笑顔で、青年がそう言う。ドラッグストアのアルバイトで、店頭でセールストークをぶち上げているらしい。役者だから大声は慣れていよう。人前に出るのも平気だろう。
 「おい、丁稚!」
 と、僕は彼を芝居の役柄で呼ぶ。明治座の川中美幸公演「天空の夢」で、春3月と秋11月に一緒になった親しさがある。
 「めしでも行くか!」
 と声をかけて、返事にびっくりした。けいこ中のアルバイト…には驚かないが、何と彼は、本番中にも店に出ている。夜の部午後8時すぎ、川中のショーが終わって「お疲れさまでした!」のあいさつをしたあと、都営新宿線で浜町から新宿へ出る。9時から3時間、毎晩で、
 「そうしないと家賃が払えない」
 のだそうな。
 「おい、俥引き!」
 と声をかける青年もいる。川中演じるお慶が仕切る老舗大浦屋の手代で「天空の夢」の幕開けに、川中のお供で荷車を引いて登場する。それを店頭で、女中と一緒に迎えるのが丁稚。そんな若手が大事なドラマの冒頭にいい役を貰っている。
 「おい、そこも日本か?」
 俥引き相手に僕はバカな冗談を言う。JR中央線でずいぶん奥へ入って、乗り換えてまた幾駅か。あきるの市から通う彼は、朝5時起きで9時すぎに楽屋入りする。最近増えた事故を想定して早めの移動、女中はそれよりも早く狭山から出て来る。川中づきのあれこれを頑張るためだが、この2人は親許に住む。丁稚のアルバイト分を親がかりでパスするが、そのかわりに交通に相当な時間がとられる。丁稚が長本批呂士、俥引きが菊池豪、女中が石原身知子…。
 若手役者は大てい、生活費稼ぎに追われている。商業演劇に参加する彼らがまず戦うのは、貧困生活だ。食えない日々が長く続き、そこから抜け出すチャンスがいつ来るのか、見通しは極めてたちにくい。それでもみんな劇場で生き生きとしている。出番ちょこっとの端役でも、これが一番好きな仕事だし、見果てぬ夢がある。ことに今公演は少しずつにしろ、みんながちゃんと役どころとせりふに恵まれていた。
 彼らに接していて僕は、時々目頭が熱くなる。芝居に入れ込んで感情がたかぶっているせいもあるが、彼らのけなげさに胸うたれるのだ。こんな時代でも〝念じれば通じる〟ことを信じる奴らがいる。それが嬉しいし、ぶっちゃけた話、彼らがうらやましくもあるのだ。20才前後、僕は彼らと似た思いを押し隠しながら、スポーツニッポン新聞社のボーヤとして働いていた。食えなくて〝流し〟になろうと決心した時もある。昭和31年ごろには、アルバイトで働ける先なんてまるでなかったせいだが、流しには盃ごとが要ると言われた。当時、上野から松戸あたりまでの流しを仕切っていたのは、てきやのI連合O興行部。新聞社のボーヤとやくざの盃が、両立できるはずはなかった。
 どこへ行き、何をやっても、一生懸命働いたろうな…と自分を振り返る。生まれが生まれ育ちが育ちだから、自慢じゃないがよく気がつくし、どんなことも苦にはならない。負けず嫌いの意地っぱり、やせ我慢は慣れっこだった。
 《それにしても、あのまんま流しになったら、今ごろはどこかでカラオケの先生かなんかやってるか…》
 体がもち堪えていればの話だが…と、自分に冗談を言いながら、公演中にやっと一度、丁稚と俥引きとめしを食った。丁稚に
 「アルバイトの休みの日が決まったら、早めに申告しろよ」
 と言ってあったのが実現してのこと。奮発して行きつけの寿司屋へ連れて行ったら2人は歓声をあげた。出てくる珍味あれこれに「生まれて初めて!」を連発、料理を全部ケイタイで撮影した。
 《この若さとバイタリティーにはかなわねえな》
 親子ほども年の違う仲間がまぶしくて、僕はなかなかに楽しい夜を過ごしたものだ。

週刊ミュージック・リポート