新歩道橋794回

2011年12月27日更新


  
 星野哲郎があろうことか、自分の詞に曲までつけ、そのうえ歌ってるCDがあることをご存知だろうか? まさかそんなものが…といぶかる向きが多かろうが、確かに存在する。平成元年にCBSソニー(当時)から発売された「十人十艶」というアルバムの中の一曲、タイトルは「ゴンドラ哀歌」だ。
 ♪命短かし恋せよ乙女…
 の「ゴンドラの唄」が愛唱歌だったと言う星野が、彼流にそれをコピーした歌だと、歌詞集の中に書いている。命短かし…の名フレーズに対抗したつもり…という2行が、
 ♪ふたり一つの恋のせて、舟は嵐の海を行く…
 で、歌詞の三番のおしまいにある。死なばともに…と誓い合った男女の道行きソングだ。
 僕は12月13日の昼夜、日比谷公会堂で「星野哲郎メモリアル・水前寺清子コンサート~千里の道も一歩から」を手伝った。おこがましくも「監修」なんて肩書きまで貰い、星野の足跡やひととなりについての生ナレーション、けっこうきっちり書き込まれた台本を、観客の前で読んだ。最近いろんなことに手を出してはいるが、これは僕にとって初めての体験。
 「滑舌がどうの、イントネーションがどうのと、むずかしいことはいいっこなしよ!」
 なんて、勝手な煙幕を張ったら、心やさしい演出家の山本秀実がコックリをした。
 「統領! いつもの調子でやりゃいいんですよ」
 と、妙な後押しをするのは、プロデューサーで水前寺のダンナの小松明と音楽監督の山﨑一稔あたり。旧知の間柄でお互い遠慮がないが、それだけにこちらはヘマはやりにくい。
 星野には密着取材45年余を許された。作詞はしないが、物書きの操と志を学ばせてもらって、師弟の関係の認可!?も得ていた。水前寺が星野の愛弟子であることは周知のとおり。だとすれば僕と彼女は姉弟弟子ということになる。彼女がコロムビアのコンクールで星野に認められたのが昭和35年で15才の時。僕が星野と初めて会ったのは38年、28才だったから、10才ほど年上だが、星野歴では水前寺の方が姉貴分だ。
 その水前寺が、思い出のコンクールと同じ日比谷公会堂で、星野の追悼コンサートをやる。僕は、何はおいても手伝わない訳にはいかない縁があり、それならば…と、共演者に名を挙げたのが辰巳琢郎とモト冬樹。こちらは今年6月に名古屋御園座で「恋文・作詞家星野哲郎物語」で共演していて、その時星野に扮した辰巳が今回も星野役。劇中「みだれ髪」を歌って好評だったモトには、おしゃべりの他に星野作品を何曲か。つまりは星野をめぐる「縁(えにし)」のあれこれが、勢揃いしてステージに上がった催し。32年ぶりに指揮棒を振った作曲家安藤実親は、いわば星野の同志だった。
 このコンサートは水前寺にとって、思い出の場所で恩師に捧げた彼女流儀の一周忌法要。終演後、
 「少し心の整理がついた」
 と涙ぐんだ。生前星野が
 「人生の応援歌は、みんなが辛い時こそ、聞かれたり歌われたりするんだ」
 と、しみじみしていたことも思い出した。「365歩のマーチ」を歌いながら、水前寺の胸中は大いに揺れたろう。未曾有の災害に重なった人災、復旧、復興は掛け声ばかりで、行き場のない不安が社会を覆うこの年の瀬、彼女は改めて自分が「歌うことの意味」を問い直したかも知れない。
 ところで冒頭のアルバム「十人十艶」だが、星野と一緒に石本美由起や山上路夫までが作詞、作曲、歌を披露している。遠藤実、岡千秋、杉本眞人、聖川湧、たきのえいじらが自作自演していても別に驚かないが、全員新曲、一体誰がこんなことを? の疑問は、エグゼクティブ・プロデューサーに、馬渕玄三の名がクレジットされていて氷解した。
 このコラム、2011年最終回の今回は、世相と同じに後ろ向き。掘り出しものの報告をしながら、星野に阿久悠、吉岡治、三木たかしらの顔を思い浮かべた。近ごろ流行歌が、内容、スケールともに、やせてきているのがとても気にかかる。

週刊ミュージック・リポート