新歩道橋798回

2012年2月18日更新


 
 いつになく早めの帰宅。と言っても午後10時は回っている。電話機に点滅する留守電とファックスの赤灯。胸騒ぎがしてファックスのボタンを先に押す。最初に流れ出したのは訃報、シャンソン歌手の芦野宏が亡くなっていた――。
 87才、2月4日、入院中の聖路加国際病院で死去。間質性肺炎によるもので、通夜、葬儀は近親者のみで済ませ、後日、お別れ会を開くとある。
 《あれが僕の見た最後のステージか…》
 昨年の7月3日、NHKホールで開かれた「パリ祭」の大詰めを思い出す。芦野はピアノに手をおいた形で歌った。加齢の影響は確かにあったが、往年をしのばせる朗々とした声、それが身上の端整な唱法、地味めのスーツも含めて、品位を重んじる姿勢が、ありありとしていた。彼は彼の裡なる「芦野宏像」を維持することを、自身に厳しく課しているように見えた。
 《それにしても、間質性肺炎とは…》
 一般に時おり耳にする病名だが、僕には美空ひばりの最期としての記憶がまだ生々しい。肺の機能が次第に損なわれ、歌うことの生命である呼吸が、じりじりと失われていく。歌い手にとっては無残すぎる病状ではなかったか。その病名を芦野や身辺の人々は、少し前から口にしていたと聞く。彼はどんな思いで、残された日々を過ごしたのだろう。
 1月15日、芦野はステージに立ち、17日に入院、14日後に息を引き取っている。1953年、NHKラジオ「虹のしらべ」でデビューというから、歌手生活が60周年。往時をしのぶあれこれ、後に残る気がかりのあれこれに思いをめぐらし、伝えるべきことは伝えて、もしかすると覚悟の上の旅立ちだったのかも知れない。
 一般社団法人日本シャンソン協会の会長だった。石井好子が立ち上げた組織の経済的部分に手当てをし、会長の座を引き継いだ。運営に私財を投じた会だけに、相応の使命感ももってのことだったろう。
 「あなたも引き続き、手助けをして下さいね」
 芦野から僕が声をかけられたのは、石井を通じての知遇を受けていたせい。
 「演歌のお前さんが、どうして?」
 と、友人によく聞かれたが、石井とは長いつき合いがあった。加藤登紀子らの登竜門となった日本シャンソンコンクールは、石井音楽事務所と僕の勤務先スポーツニッポン新聞社の共催事業で、それをきっかけに僕は、シャンソン界に交友を広げていた。
 それやこれやの縁で、今年も6月2日、シャンソンコンクール東京大会の審査を手伝うことになっている。このイベントも7月のパリ祭も、大看板を失いはしたが粛々と開催されていくのだろうが…。
 《問題は協会の会長選びと、事後をどうするかだ》
 新聞屋育ちの性急さで、そんなことまで気になるが、事後のことはきっと、時間をかけて慎重に検討され、実現していくことになろう。髙英男は歌えなくなってもなお、パリ祭のフィナーレには並んだ。石井は自分が立ち上げ育てたパリ祭で、シャンソンの王道を守ることを終生考えつづけた。優しげな笑顔でその傍に居た深緑夏代もなく、今度は芦野が去った。
 仄聞するところ3案…がささやかれている。その1はベテランの起用、その2が思い切った若返り、その3が外部有識者の起用らしく、それぞれに名前も挙がっている。しかし、無用の混乱は心して避けねばならないから、ここでは触れずにおこう。気になるのは
 「50代でまだ若手ですから…」
 と自嘲気味に話す歌手もいるシャンソン界の高齢化だ。反面、地方も含めた都市に必ずシャンソニエがあり、カラオケ大会には、カルチャースクール系のシャンソン愛好者の参加が目立つ。ことのほか裾野は広がっているように思える。それを大きなうねりにまとめ、シャンソン界を活性化するためには、一体どんな手だてが必要なのか? それを芦野はどう考えていたのだろう?

週刊ミュージック・リポート