新歩道橋799回

2012年3月3日更新


  
 こぶりな庭に面して、大きなガラス窓が広がる。応接間の床から鴨居まで、いわゆる〝掃き出し〟という形式。それに緑がいっぱいだ。中央、垣根の向こうにそびえる落葉樹は欅かと思ったら?(ぶな)だと言う。手前にほど良い高さの桜、
 《春はもっと、いいだろうな》
 と眺めていたら、庭の小低木に一羽、野鳥が来た。体をさかさまに赤い実をついばむ。あれは南天か千両か。後で調べたら南天に実がなるのは秋、千両なら冬とあるから、やっぱり千両だ――。
 《何とも閑静な…。新宿間近の初台に、こんな眺めがあるとは…》
 そんなのどかな気分になったのは、作曲家水森英夫邸。2月21日の午後、やっていたのは永井裕子の新曲のアレンジ打ち合わせだ。前田俊明とギターを連れ弾きしながら、前奏や間奏、エンディングまで、準備されていた気配の旋律が水森のハミングで出て来る。
 「それでね、歌は話をしている自然のまま、バンと声を前に出す。余分な細工はしないこと」
 キイ合わせの間が、永井へのレッスンになる。歌手11年超、いつか身についた声や節の操り方、演歌的な科(しな)の作り方を取り除こうとするのだ。物事万事、率直に表現するのがいい…と、常々考えて来たが、歌も例外ではないか…と僕は合点する。水森からはこれまで何度も「発声力」という言葉を聞いた。もともと歌い手が持っている声の力と味を鍛えて、まっすぐに直球勝負をする。それが聴く側の胸に一番届きやすい。氷川きよしが最大の成功例だろうし、そういえば彼が最近手がけた水田竜子の「野付水道」も、歌がストレートに変わって、すっきりした。
 1月、水森や前田、作詞の喜多條忠らと島根県の大田市へ出かけた。石見銀山が世界遺産に選ばれて今年が5周年。
 「また歌を作って下さいよ」
 と、竹腰創一市長から声がかかっての現地取材である。5年前に吉岡治、四方章人と出かけ、永井が歌った「石見路ひとり」を作った縁があった。
 ところが出発前日、喜多條が発熱、インフルエンザだと言う。やむを得ず作詞家は後日改めて…ということにしたのに、当日、羽田へ本人が現われた。
 「詞が行かにゃ、話にならんでしょ」
 かかりつけの医師に強力な薬を処方して貰い、風邪を抑え込んだという。そのまま一行は石見銀山や温泉津(ゆのつ)を見て回り、市長主催の夕食会に出る。驚くべきはそのあと、喜多條は徹夜で詞を一編書き上げ、翌日の朝食の席へひらひらと持ち込んで来た。ありあわせの紙片の裏側へ3コーラス。その詞はそのまま使わせて貰う完成度を示していて、
 「風邪? うん、何とかおさまった」
 と笑ったものだ。
 ――再び水森邸。喜多條は風雅なその庭で一服する。アレンジ打ち合わせに作詞家が参加するのも珍しいが、それだけ気合いが入っているということか。
 「それにしてもタフだよなあ、その後何ともなかったの?」
 と、古川健仁ディレクターが石見銀山の一件に触れる。この冬は豪雪の被害があちこちで、僕らが泊まった三瓶荘もきっとすごい雪の中だろう。
 「それにしても…」
 のお鉢が僕に回って来る。1月、石見銀山から帰京した翌日、僕は小西会の面々とハワイへ行き、何と6日で7ラウンドのゴルフに挑戦した。「バカじゃないの!」と友人たちに笑われたが、この年齢でどこまでやれるかを試してのこと。島根での気合いの入り方が、あらぬ方向へ飛び火したのだが、その辺はえへへへ…の陰においた。
 この原稿を書いている2月23日は、前夜から全国的に雨。この時期の雨は春の到来間近を告げる「木の芽起こし」と呼ばれる。そう言えば葉山のわが家の眼下の海では、干潮になると岩場に海藻の緑が目立ちはじめている。
 島根・石見界わいの永井の歌は「石見路ひとり」「和江の舟唄」に続き、今度の「石見のおんな」が3作め。きっと気分のいい仕上がりになるだろう。

週刊ミュージック・リポート