新歩道橋803回

2012年4月7日更新


  
 少し早めに会場へ行ってみたら、原田英弥がちょこまか落ちつかなかった。座席の数やら並べ方、クロークのあんばい、アルコール類への目くばりなど。それが僕の顔を見るなり低頭して、
 「お疲れさんです。でもダメだよ、このためにスケジュール変更したりしちゃ…」
 と渋面を作って見せたりする。3月27日夜、六本木のノビルデューカ。ここで開かれたのは原田本人のテイチク卒業を祝う会なのだ。営業7年、宣伝36年、合わせて43年の仕事で習い性になった仕切り癖が、丸出しという風情。
 「何の取り柄もない僕が、こんなに長い間働けたのは、皆さんのお陰です」
 と、本番であいさつする彼を見ながら、僕は、 《その取り柄のなさを逆手にとって、彼は彼の特色を作ったんだなあ》
 と合点した。鬼面人を驚かす企画を立案する訳でもなく、売り込みに気の利いたコメントを添えるでもなく、ただ誠心誠意で媒体に通いつめ、実にこまめにきちんと人間関係の輪と信用を築いて来た。
 『人の良さで商売が出来るほど、この世界は甘いもんじゃない』
 と言われる歌社会で、人柄の良さを売りにしおわした珍しいケースと言えようか。
 上手に企画書などを書き、会議では発言にそこそこの切り口と論法を持ち、社内遊泳術なかなかというタイプが、重用されがちな時代である。彼らは一見都会的でスマートなやり手ふうだが、社外へ出すとさしたる戦力にならぬことが多い。僕は乞われて話すことの多かったテイチクの歴代社長に、
 「愚直なくらいに、地べたを這いずり回って働くタイプを、大事にすべきだと思います」
 と具申し続けてきた。
 情報の伝達はマン・ツー・マンの手渡しが唯一、最高の方法。相手の手応えが判るし、こちらの情熱が伝わるし、相互理解の糸口が生まれる。そんな機会を積み重ねれば、友情さえ感じ合える情のネットワークが出来上がる。不眠不休、誰とでも会い、どこへでも出かけるそんなやり方は古い!もっと効率のいい方法を選ばねば…と、模索する近ごろ流、IT関連のツールを利用してのあれこれでは、合理的に見えても一番大事な体温が通じない恨みが残る。それやこれやを考え合わせれば、この夜の催しは、古典的な最後の宣伝マンを送る会になったかも知れない。
 しばらく骨休めをして、いずれまた何かを…という顔つきの原田に、
 「6月、ひと仕事たのむよ」
 と、こちらは会の途中にもかかわらず、いつも通りの持ちかけ方をする。実は瀬戸内海の小豆島に、作詞家吉岡治の顕彰碑が建つことになっていて、そのころが除幕式。この島と吉岡は、石川さゆりの「波止場しぐれ」をご当地ソングとしてヒットさせ、新人歌手の登竜門「演歌ルネッサンス」を5年間やった縁がある。いずれも島の青年たちの懇請に吉岡が応じてのことだが、地元にとっては「島おこし」吉岡には「演歌おこし」の夢があった。
 それにしても「波止場しぐれ」が1985年「演歌ルネッサンス」が1995年から2000年までで、12年から27年前のことである。当時の青年会議所の面々も、そこそこのおっちゃんになっているが、
 「あのころの感動と思い出を、次の世代へ…」
 と、思い立ったのが顕彰碑建立。吉岡の人徳が生きているから、東京側は当時の空気をのみ込んだ形の対応をしなければなるまい。
 「だからさ、こういうのはお前さんに限る。連れて行きたいのは〝波止場しぐれ〟の作曲の岡千秋、歌の石川さゆり、それにルネッサンス出身の岩本公水あたり。地元とのやり取りから、当日の乗り込みまで、一切任すから仕切ってよ」
 サラリーマンの退社慰労パーティーの席で、主人公と次の仕事の打ち合わせ…というのも乱暴な話だが、本人が急に、眼つきと口調が生き生きとして来たから愉快だった。終生裏方の覚悟の原田には、親交のあった70人余が集まったこの会が、望外の喜びではあったのだが、面映さに困惑する一面もあったせいだろうか。 

週刊ミュージック・リポート