「昭和」が売りものである。ことに戦後。時代を検証するものから青春回顧録、今だから話せる裏面史、ゴシップなど。政治、外交、文化、世相にまつわる出版物は山盛りだし、イベント、講演のたぐいまで、毎日どこかしら…の賑わいだ。敗戦からの復旧、復興へ、エネルギッシュでずっと右肩上がりだった日本の〝あのころ〟に、いろんな人がいろんな感慨を抱き、改めて教訓やヒントを求めようとする。低迷、混迷の昨今だからこそ、そんな希求が幅広いのか。
そのおこぼれにあずかっている。有線放送の「昭和ちゃんねる」は、もう5年近くのレギュラーだし、NHKラジオにもしばしば呼んでもらえる。何しろ〝歌は世につれ、世は歌につれ〟である。この惹句は語呂合わせで、決して〝世が歌につれ〟ることはないが、歌はその時期々々の世相を写す鏡の役割を確かに果たして来た。なつかしいヒット曲を挙げ、それにまつわるおしゃべりをする。ま、年齢が年齢で、歌社会の暮らしが長い分の、ネタは〝知ったかぶり〟である。
昭和38年、テレビ局のあちこちで、学生服の少年歌手にでっくわした。デビューしたての新人のあいさつ回りで、それを目撃する僕も内勤記者から取材部門に異動したてのホヤホヤ。緊張をひそかに共有したその歌手舟木一夫と僕は、一回りほど年が違うがいわば同期生になった。橋幸夫はすでに人気者になっており、この年スタートした日本クラウンからは、間もなく西郷輝彦がデビュー、御三家の時代が出来上がる。
流行歌はそのころまで、おとな専用の娯楽だった。小学校5年生の学芸会で、アカペラだから突然曲目を変更「異国の丘」を歌って大目玉をくらった体験がある。校長室前の廊下に、一日中おしおきの起立を続けた。それなのに修学旅行のバスが舟木の「高校三年生」の大合唱を乗せて走る時代が来た。レコード商売が少年少女をターゲットに、大きく舵を切ってのことで、その流れは今日に続いている。
日本が列強に肩を並べるアピールをした東京オリンピックが翌39年。文化、風俗の欧米化に拍車がかかって、フォークブーム、GSブームが生まれる。直後に和製ポップスがもてはやされるがすぐに〝和製〟の看板がはずれた。流行歌の〝黄金の70年代〟の到来である。表記に〝昭和〟が減り、〝西暦〟が多用されるようになるのは「70年安保闘争」の影響だったろうか。昭和39年が1964年だから、40年代の初めが60年代の後半に当たる。学園闘争、反戦、反米、安保反対のうねりが若者たちを動かし、フォークもGSも、反体制の匂いがした。それが歌謡化して流行歌の主流を形づくり、今日にJポップにつながる。
「いい時代だったよなァ」
と、近ごろみんなが口を揃える。娯楽の王者だった映画界が斜陽、「音楽産業」を誇称するようになった歌社会は、老若男女それぞれ用の歌づくりで有卦に入った。テレビの歌番組に背中を押されて、ジャンルいろいろ何でもありの活況。業界でよく口の端にのぼった言葉は「感性」で、それが若い世代のお墨付きになった。
吉田正、船村徹、星野哲郎の知遇を得た僕は、なかにし礼、阿久悠を筆頭にフリーの時代の作詞、作曲家たちとの親交に恵まれた。スポニチ在籍のままタレント化し、はやり歌のプロデュースに手を染め、好き放題の仕事を続けて今は、雑文屋兼業の役者である。しばしば音楽評論家と呼ばれるが、そんな大層なものではなく、楽屋ぐらし大好きの〝はやり歌評判屋〟が実態。いい歌が出来たぞ! いい歌手がいるぞ! のお先棒かつぎは、終生変わることがない。
突然、昔話を書いたのは、このミュージック・リポートの発行元、レコード特信出版社がそんな幾時代かを奮闘、今年、創業50周年を迎えたことに敬意を表してのこと。創業者の斎藤幸雄会長は、船村徹と同郷の人で、船村門下の僕はそのご縁にもつながっている。昨今、歌社会はこんなふうに多事多難だけれども斎藤会長、日本の歌のためにもうひと踏んばりでしょう! 創業50周年おめでとうございます!