新歩道橋807回

2012年5月19日更新


  
 「これで、最初で最後の親孝行が出来たような気がします」
 作曲家の蔦将包が例によって、あまり感情を現わさない表情であいさつをした。その割に声に、緊張と安堵の色がにじむ。居合わせた僕ら90人ほどは、大いに共感の拍手をした。4月27日金曜日の夜、八重洲口のヒットスタジオトウキョウで開かれた「船村徹・佳子結婚50年を祝う会」でのこと──。
 蔦とさゆり夫人、それに渚子さんと、3人の子たちが催した会である。案内状は3月についた。しかし、ただし書きが厄介で「両親には内緒で企画した会」とあり、その文言の前半が、ごていねいに赤い字で印刷されていた。当日までに口外禁止の〝しばり〟である。
 《気持ちは判るけど、さあてね…》
 僕は月に一度、日光市に作る船村徹記念館の地元との打ち合わせで、佳子夫人に会っているし、船村と会う機会も多い。第一、噂話大好きの歌社会の面々が、夫妻に気取られずにいられるものかどうか…。
 しかし当日は、みんなが浮き浮きとした顔つきで集まった。そっと聞いたら夫妻には、
 「家族と弟子たちで食事でも…」
 が口実だった。開宴の5時30分から夫妻の到着が30分近く遅れた。仲間たちバンドの演奏も、譜面が足りなくなる気配。
 「きっと誰かがしゃべったに違いない…」
 「怒って途中から帰っちゃったんじゃないの」
 僕らが野次馬になりかかったころ、めでたく主賓の登場である。派手な歓迎の音楽、参会者のスタンディング・オベーション! シャイな大作曲家が、得も言われぬ表情で、ステージ中央に立つ。
 「何なのこれは?」
 と夫人は面くらっている。司会の荒木おさむが、恐縮ぎみに趣旨説明をすると、船村の顔がテレ笑いに崩れて、どうやら息子たちのプレゼント金婚式のお祝いは大成功の波に乗った。
 弟子筆頭の北島三郎があいさつをする。ケーキカットなどがあって弟子若手の静太郎や天草二郎が歌い、今年還暦の鳥羽に〝おめでとう〟が飛び出し、彼の長男と次男が「兄弟船」を歌う。陽気でくつろいだ宴になったが当の船村の発言は、
 「もういいよ!」
 の一言だった。
 「いい会でしたね。こんなの初めてだけど、先生もお喜びでしょう」
 感に耐えぬ感想をもらしたエイベックスの飯田久彦顧問と僕は、翌々日の日曜日、茨城・日立行きの特急に乗った。吉田正音楽記念館が8周年を迎え、名誉館長が亡くなった喜代子夫人から橋幸夫にバトンタッチされた。それを記念したコンサートが開かれて、集まったのは橋に三田明、古都清乃、久保浩、鶴田さやか…。吉田夫妻の墓参をすませて、僕らは久しぶりに懐かしの吉田メロディーを堪能した。
 船村にしろ吉田にしろ、昭和を代表する作家たちには、大勢の家の子郎党がいる。その末席に加わる光栄に浴した飯田氏と僕は、
 「教えられた大切なものを、仲間たちに伝えていかなければなあ」
 「それにはまず作品だね。若い人たちと話し合って、後世に残る歌づくりの手伝いをぜひ…」
 と、帰路の車中でしばし、しみじみとしたものである。
 「70才で一応、踏ん切りをつけるつもり」
 と、よく口にしていた飯田氏は、有言実行でエイベックスの役員から退いた。とは言え歌社会を離れるはずもなく、日夜、いい歌を残し、いい歌を作るための伝承者ふうな役柄に没頭しているように見える。
 《ようし、それならば…》
 と僕は、5月9日に、彼と一杯やる会をでっち上げた。彼が歌手から制作者に転じたころからの、長いつき合いがある。長いことご苦労さん…と、遅めの古稀のお祝いのつもり。絶対に固辞することは判り切っていたので、僕が勝手に共通の友人を呼んだ20人ほどの催し。それとは知らずに現われた彼の閉口ぶりったらなかった。みんなで拍手をした。それにしても、主人公に内緒の「サプライズ」ってやつは、ずいぶんと気骨の折れるものである。

週刊ミュージック・リポート