新歩道橋808回

2012年5月26日更新


 
 長嶺ヤス子に会った。とっさの思いつきで、
 「2曲くらい踊ってよ、5月19日、けやきホール…」
 と頼んだ。相手は名だたるフラメンコダンサーだが、このところ演歌を踊ることに熱中している。スペインで磨いた舞踊が、次第に日本的な精神と表現に回帰、得も言われぬ〝長嶺流〟に昇華していて、行きついたところが演歌の情念…。
 「いいわよ」
 と彼女が、あっさりOKしたのは、その催しが「吉岡治の世界」というトークショーだったせいだ。古賀ミュージアム講座「殿堂顕彰者の歌を歌い継ぐ」というシリーズの17回目。その講師とやらを頼まれた僕が「さて…」と、思案に暮れている時に会ったのが長嶺だった。
 幕開けにまず「飢餓海峡」を踊り、吉岡作品との出会いをひとくさり。あとは長いつき合いの新田晃也の歌で「さざんかの宿」「命くれない」「細雪」ほか、おしゃべりの相手は元コロムビアの境弘邦氏。「真っ赤な太陽」「大阪しぐれ」「波止場しぐれ」などはCDでかけて、大詰めはもう1曲、長嶺が「天城越え」を踊る…。
 吉岡の〝人と仕事〟を語ることについて、そこそこのネタは持っている。境氏との四方山話ふうに、面白おかしくは出来るだろう。それをどういう形に構成するか…で、ずっともやもやしていた。折にふれてあれこれ断続的に考えながら、答えが出ないケースは、気が重いものだ。それが長嶺との出会いで一気に晴れた。渡りに舟というか、時の氏神というか、人には会っておくものだし、つき合っておくものだと、改めて合点する。
 「演歌を踊る。これがなかなかに面白いのよ。あなたの曲もいくつか出て来るよ」
 と、ずいぶん以前に吉岡に話した。
 「へえ、見てみたいね」
 と軽い相づちが返って来たのが、長嶺が歌舞伎座で踊る会に、夫人同伴で現われた時は少々驚いた。終演後、行きつけの飲み屋で一杯やったが、吉岡は興奮の色を隠さなかった。「飢餓海峡」と「天城越え」が演目に入っていたように思うが、
 「自分の作品が歌手の声に乗るのは慣れっこだが、踊りで形になるのは初めての体験。とても刺激的だった」
 と、口調に力が入る。詩人の情念と踊り手の情念がスパークした瞬間だったろうか。
 あれからもう何年になるのだろう? 吉岡夫妻と長嶺は急速に親交を深め、いつのころからか、僕の知らない長嶺情報を吉岡夫人から聞くようになり、吉岡の没後もその関係は変わることがない。最近の石川さゆり明治座公演のロビーでも、長嶺の大きな帽子姿と夫人の歓談にでっくわしたりしたくらいだ。
 19日のけやきホールでは、新田に「大利根月夜」を1コーラス、リクエストしてある。吉岡が夜毎の酒で盛り上がると、大てい歌った替え歌である。
 ♪生まれ在所は長州江差、腕は自慢の演歌書き、何が不足で盛り場ぐらし、うちにゃ、女房子供が待つものを…
 テイチクの千賀泰洋に電話をして、そういう文句だったと確認もした。ステージでは、そんな歌をとっかかりに、新宿の夜の詩人の素顔を話すことになろうが、きっと吉岡夫人も現われるはず、悪乗りしての脱線は慎まなければなるまいと思ったりする。
 この原稿を書いている5月17日は吉岡の2回目の祥月命日である。もう3回忌の年だが、6月9日には小豆島で、吉岡の顕彰碑の除幕式があり、吉岡一家とまた一緒になる。町おこしのために…と、島の青年たちに飛び込みで頼まれて「波止場しぐれ」を書き、5年間、演歌系新人歌手の登竜門イベント「演歌ルネッサンス」を主宰したのが、吉岡と小豆島の縁である。除幕式には岡千秋、もず唱平、石川さゆり、岩本公水らが参加する。人に会い、夢に添った吉岡の生き方が、今も島の人たちの胸を熱くしていると思うと、感慨もひとしおである。

週刊ミュージック・リポート