新歩道橋809回

2012年6月10日更新


  
 何とも言いようのないほど、いい笑顔だった。5月22日午後、青山葬儀所で仰ぎ見た長良じゅんさんの遺影だが、その後何日経ってもあの『天衣無縫』ぶりが脳裏を離れない。74才で逝った芸能界の大物には、語弊のある四文字だろうが、半世紀を超えるこの世界での修羅場の、屈託のすべてを超越したものに見えた。
 《50才を過ぎたら男の顔は、それまでの生きざまが作るものだ》
 というが、僕はその典型を見た思いがした。心の開き方が半端じゃないのだ。
 初めて会ったのは45年前の昭和42年、水原弘が「君こそわが命」でカムバックした時で、兄事した名和治良プロデューサーの仕事だった。僕は水戸のキャバレーで水原の心底を見定め、惹句の「三千万円作戦」を作ってお先棒をかついだ。そこから長い親交を得た歌手水原、作曲者猪俣公章、作詞の川内康範、制作の名和ちゃん、宣伝の田村広治…と関係者を一人ずつ見送ったが、まさか長良氏と、ハワイで客死というこういう形で別れることになろうとは…。
 最後に会ったのは4月9日、相模カンツリー倶楽部の集英社コンペ。表彰式パーティーで、亡くなった音楽評論家神山亨也氏を、どう送ろうか相談した。話し中に彼にかかった電話は、安岡力也を送る会の件。きわめて情の濃い人らしい話の鉢合わせだ。業界の冠婚葬祭の手伝いが多い僕に、
 「あんたもタフだねえ。でも体に気をつけてな」
 その都度、ねぎらいやいたわりの声がかかった。目配り、気配り、助言、助力の人なのだ。その人望が、本葬5000人を超える会葬者を動かしたのだろう。
 『落葉は風を恨まない』
 勝新太郎が病院で、最後に長良氏に渡した色紙の文言だと聞いた。美空ひばりとの「ねえさん」「きょうだい」のやり取りは、何度も見聞きした。息子加藤和也・有香夫妻のよき相談相手で、昨年11月の東京ドーム・ひばり23回忌メモリアルコンサートは、長良氏とバーニングプロの周防郁雄氏、ジャニーズ事務所のジャニー喜多川氏の助力なしには成立しなかったろう。
 さる有名作曲家が、僕に誹謗中傷されたと、長良氏に訴えたことがある。長良氏は言下に、
 「彼はそういう男じゃないよ」
 と答えたと、当の作曲家から聞いた。伊豆の宿で長良氏と別の作曲家が睨み合いになった夜は、分もわきまえずに僕が間に入った。岐阜で僕と建築会社の社長が言い合いになった時は、何とあの長良氏が「まあ、まあ」と止め役になった。
 山川豊の芸名は、同志であった同名のマネジャーのものがそのまま用いられた。御三家全盛時代に橋幸夫のマネージメントを献身的に展開した山川氏への思いがこめられており、山川のデビューにはバーニング周防氏とタッグを組む異例中の異例が実現した。氷川きよしのデビューは、Jポップ全盛に反撃する強い意思で敢行された。ロカビリー時代にあえて股旅もので挑戦、成功を収めた橋幸夫のケースが、意識にあったかも知れない。氷川の育て方には「男・美空ひばり」を狙う構想が垣間見えたようにも思う。
 「長良です。記事読みました。いつもありがとうね」
 3月上旬の深夜、僕は自宅留守電で長良氏の声を聞いた。2月25日、横浜アリーナで開かれた「長良グループ新春演歌まつり2012」を取り上げたこのコラム800回めについてだ。山川豊、氷川きよし、田川寿美、水森かおりに森川つくし、岩佐美咲、はやぶさと司会の西寄ひがしを加えた顔見世興行。客は団体バスで詰めかけ、1階正面にはおびただしい祝い花、CDやグッズの売り手の快活な声が響き、2階ロビーにはホットドッグ、いなりずし、ぶたまん、ラーメンに生ビールの売店までが並んで、老舗プロのイベントらしいお祭り気分があふれていた。
 戦後、混乱を極めた歌謡界を、体を張って生き抜いた長良氏ならではの恒例行事…と、僕は懐かしい気分も体験したものだ。そういう意味では長良氏の死は「最後の実力派興行師」のそれであったかも知れない。

週刊ミュージック・リポート