新歩道橋810回

2012年6月18日更新


  
 《変わらねえなあ、ちっとも…》
 と、正直そう思った。6月5日、50周年のパーティーをホテルオークラで開いた舟木一夫についてだ。ステージ上のたたずまいがそうで、はにかむ様子がその代表。50年の相当な曲折を越え、今では長期劇場公演でおなじみのひとかどの存在になっているのに、そんな気配も見せない。大物振りというのは、知らず知らずのうちに身についてしまうはずだし、この世界で50年、変わらないはずなどないのが、それを素振りにも見せない。
 「高校三年生」や「学園広場」を歌う時も、テレやてらいがない。両手をひらりひらりと動かすのは、舞台での仕草なのだろうが、歌はすうっと素直なものだ。50年も前のヒット曲なら、アレンジを変えて…とか、歌い回しを今日ふうに…などと細工したがるものだが、そうしないのがこの人の生き方なのだろう。昔々、芸能界で何事かあれば必ず使われたこのホテルの平安の間も久しぶりで、僕は一瞬、タイムスリップした。
 年齢は10才近く違うが、彼と僕は同期生である。アルバイトのボーヤから、内勤記者ぐらしを7年ほどして、僕がスポニチの取材部門に異動したのが昭和38年。詰め襟の学生服姿の彼と、あちこちのテレビ局で出っくわした。間もなく上野あたりを行く修学旅行のバスが「高校三年生」を大合唱するようになる。大人の娯楽専用だった流行歌が、十代の若者たちに解放された瞬間で、その流れは今日にいたっている。
 あのころ、舟木周辺に居た二代目コロムビア・ローズは、宗紀子の本名でロスで音楽活動をしている。ディレクターの栗山章はニューヨークで小説を書いているが、内容が相変わらず理屈っぽくて、読むのに一苦労する。そんな断片的な近況は知っているが、舟木とは心ならずも疎遠のままに過ぎた。いつ会ったのが最後かも思い出せない。こんな間合いのパーティーの客というのは気恥ずかしいものだ。「やあ、ご無沙汰!」となれなれしくはなれないし、もしそうして「え~と…」という顔をされたら、けっこう寂しい思いをする。
 300人前後というファンの席を、花道を行くようにすうっと、一定の歩調で舟木は歩いた。会場へごあいさつ…の段取りなのだが、おそらく50年ものの熟女たちに、媚びるでもなく見下ろすでもない視線が、淡々と自然。なるほどこういうふうに接して長いのだ…と合点した彼から、いきなり近づいて握手を求められた。ニコッとして
 「お忙しいところをどうも…」
 なんて言っている。アイドルになって間もなくのころ、
 「ビール、飲めるようになりました。コップに半分くらいですけど…」
 と、嬉しそうに報告された時と、同じ手のぬくもりに相当に驚いたものだ。
 翌6日、今度はホテルオータニで、似たように長いご無沙汰の相手に、
 「覚えてるか?」
 と、乱暴に聞く一幕が生まれた。亡くなった作曲家桜田誠一を送る会で、相手は二宮ゆき子。
 「覚えてるわよォ。全然変わらないじゃない!」
 四谷荒木町に店を出してずいぶん長いとは聞いていたが、その口調がベテラン・ママらしいから面白かった。この人もいわば同期、大月みやこと藤本三重子とキング三人娘でデビューした当時、どっちの楽屋に先に顔を出したかと、大月がうるさいのに閉口した覚えがある。「松の木小唄」が当たった二宮は新栄プロ所属で、僕が西川幸男社長(当時)の知遇を得ているのを知っての上のあてこすりである。大月はそのころキング芸能の所属で、担当マネジャーだった島津晃氏と僕は、最近花京院しのぶの歌づくりを一緒にやり、昨年彼の死を見送った。
 「いろいろあるねえ、長いことのうちには…」
 二宮、大月とうなづき合う傍で、ニコニコしていたのはバーニングの周防郁雄社長。彼は二宮のマネジャーだった時期があり、そう言えば近ごろ、あちこちの不祝儀で一緒になる花屋マル源の鈴木照義社長も、あのころの新栄育ちだ。
 この日は仲宗根美樹にも会って、彼女の母親の話もした。年寄りの繰り言じみて恐縮だが、久闊を叙するというのもこれで、なかなかにいいものではあるのだ。

週刊ミュージック・リポート