新歩道橋811回

2012年7月4日更新


  
 船村徹の涙を見た。眼鏡をずらして、彼はナプキンでそれを拭った。6月12日夕、新高輪プリンスホテルの飛天で開かれた「歌供養」のあとの懇親パーティーの席で、映像と歌で偲んだ髙野公男と星野哲郎のシーン。主賓の席で二度、船村は周囲の視線をはばかる様子もなかった。僕はその隣りの席で、出会うチャンスもなかった髙野と、長い知遇を得た星野を思い返し、80才、傘寿の船村の孤独を思った。
 「俺は茨城弁の詞を書く。君は栃木弁の曲を書け。やがて地方の時代が来るし、それが俺たちの、この世界の突破口になる」
 無名の歌書き同志だった時代、茨城出身の髙野が栃木の船村をそう励ましたそうな。この夜、パーティー会場に流れた船村の歌声が、その結果をまざまざと見せつけた。「ご機嫌さんよ達者かね」「あの娘が泣いてる波止場」「男の友情」…。コンビがブレークした「別れの一本杉」は、船村の弟子の静太郎、天草二郎、走裕介が生で斉唱した。船村23才、髙野26才、この歌がヒットして間もない昭和31年に髙野は逝く。船村は今もその心のつながりを「髙野と一緒に生きている」と明言する。
 昭和20年代、古賀政男、万城目正、服部良一らをはじめとする作曲勢、西条八十、藤浦洸、サトウハチローらの作詞家が権勢を誇っていた。そこへ切り込む二人は異端の発想から出発した。流行歌おなじみの世界へ、独特の切り口と表現で作るオリジナリティ、当時「別れの一本杉」は
 「座敷へ土足であがるようなもの」
 と酷評されたが、大衆はその斬新さを支持した。
 映像で船村と星野が並ぶ。星野の作詞家50周年を祝って、彼の故郷・山口県周防大島で開いた「えん歌蚤の市」の一シーンだ。船村が弾き語りで「おんなの宿」の一、二番を歌い、肯されて星野が三番を歌う。頬をひくつかせ、歌詞カードを手にしながら、星野が歌詞を間違え、船村に指摘される。島でもそうだったが、この夜の客も大いに笑った。 昭和32年、髙野と入れ替わるみたいに、船村が星野を発掘した。美空ひばりが歌う横浜開港100年記念の歌詞募集で、星野は応募者、船村は選考者だった。その出会い以後、二人が数えきれぬほどのヒット曲を書いたのはご存知のとおり。この夜は北島三郎と美空ひばりが映像で「風雪ながれ旅」「みだれ髪」鳥羽一郎が生で「兄弟船」を歌った。
 「耳ざわりのいい言葉を並べて形を整えても、そんな詞は聴き手の胸に届かないよ。行間に書いた人間の生きざまがにじんでいなくちゃねェ」
 星野はよくそんな話をした。僕は雑文書きだが、その教えを長く胸に刻んでいる。
 髙野と一緒に、異端児として歌社会に突入した船村は、星野との友情を支えの一つに、やがて歌謡界の王道をきわめた。その髙野は没後56年、友情の証の歌供養は28回を数え、星野もすでに亡く、歌書きの好敵手とした美空ひばりはもう、昨年23回忌の法要をすませたところだ。しかし船村は今も、精力的に歌を書き、歌を歌っている。北島は彼を
 「お師匠さんは、永遠の旅人なんだよな」
 と言うが、この老大家の胸深くには、希代の詩人と歌手を失った孤独の穴が埋まらぬままなのだろう。この夜、会場で流した彼の涙と、そんな歌書きの真情を、居合わせた作詞、作曲家たちはどう見たことだろう?
 前々日までの6月9、10日、僕は小豆島に居た。島の人々が建てた吉岡治の顕彰碑の除幕式に参加しての旅である。吉岡は島の人々の懇請に応じて、石川さゆりの「波止場しぐれ」を書き、新人歌手の登竜門イベント「演歌ルネッサンス」を5年間主宰した。その後12年、少し年老いた当時の青年たちが、感謝の思いを後世に伝える顕彰碑にした。情の詩人と島人の絆が、いい雰囲気で型になっていた。
 そう言えば…と思い出す。「えん歌蚤の市」が星野の周防大島で「演歌ルネッサンス」が小豆島なら、阿久悠の故郷淡路島でも何かやろう。演歌瀬戸内海サミットだと企んだことがある。ついにそんな夢は実現しないまま、阿久は来年7回忌、吉岡と星野は今年3回忌の夏と秋を迎える。

週刊ミュージック・リポート