新歩道橋818回

2012年9月11日更新


  
 いきなり出て来たのが〝がや〟という魚の煮つけ。別名が〝えぞめばる〟で、東京で喰らうめばるよりかなり大きいから兄貴分か。脂が乗ってめっぽううまいから、やっぱり焼酎の水割りをいく。聞けばその朝、作詞家里村龍一が釣ったものだそうで、入れ食いで100匹以上の釣果だったと言う。8月25日、北海道・鹿部カントリークラブの食堂。午後1時過ぎで、僕は東京から飛び込んだばかりだ。
 鹿部といえば、亡くなった作詞家星野哲郎が毎夏、20何年か通った漁師町。里村と岡千秋が助さん格さんよろしくお供をし、僕も「助さんと格さん」の「と」としてずっと同行した。その「と」の僕が、とるものもとりあえず駆けつけた理由は、この日に町の有力者・道場水産の道場登社長の快気祝いがあったせい。この人は自称星野哲郎北海道後援会会長で、骨の髄まで彼の信奉者。星野の鹿部ぶらり旅を、物心両面で見事に支えた資力と心意気の持ち主だ。
 そう書けば、でっぷり大柄な金満経営者タイプと連想されそうだ。確かに一代で功も名もとげたサクセスおじさんだが、これが少年みたいに輝く眼をした、小柄な老青年。
 「星野先生は、めんこいなあ」
 と、感に耐えぬ感想を連発しながら、朝から酒、ゴルフの間も酒、夜も酒…の日々が長かった。人を愛し、地域を愛し、流行歌を愛する好人物で、里村、岡と僕は〝たらこの親父〟と呼びならわして来た。還暦と長男の結婚を祝って、星野が「嬉し涙の登ちゃん」という歌を書き、島津亜矢の歌でCD化したこともある。古稀の祝いには「鹿部コキコキ節」を作って、岡千秋が歌ったものだ。
 そんな大酒飲みのゴルフ好きが、大病を患っていたことを、僕らは知らなかった。やたらにシャイで、心くばりの名人だから「東京へは知らせるな」の一点張り。自分の病気を棚に上げて、心配をかけまいとこちらへの気遣いが先に立っていたらしい。それが腹心の青年の口からちょろっともれたのは、僕ら3人の鹿部通い「今年はいつ来るの?」の問い合わせがあってのこと。たまたま郷里の釧路に居た里村が即反応、岡はスケジュールが動かせず9月中に絶対行くから…になり、僕がトンボ返りをすることになった。
 もっとも里村は到着するなり、翌早朝は釣りに出て、当日のコンペでは優勝してしまう。ゴルフは断念、晩餐会のみ参加の僕に、
 「一体、何しに来てんだよ、龍ちゃん!」
 とからかわれる一幕になったが、それもこれも、元気を取り戻した〝たらこの親父〟に、ホッと一安心してのこと。夜は夜とてお定まりのカラオケ大会。里村と僕も一曲ずつ、お祝いに一節うなったが、当の親父は会場を駆け回る幼い孫娘たちに
 「孫は、めんこいなあ」
 と目を細め、つきっきりの奥さんは飲み過ぎへ看視の眼くばり。事業を引き継ぐ長男と二男は参会者のテーブルへのあいさつ回りと、一家をあげての宴の隅で、長女は嬉し泣きに泣いてばかりの夜更けになった。
 当然、里村が日本作詩家協会の会長になったことも話題になる。歌社会の反応は「嘘!」「なんで?」「まさか!」ばかりだったと本人が報告!?
 「漁業組合ならともかくなあ…」
 と僕がまぜ返して大笑い。おしまいには、
 「命までは賭けないけど、俺なりにしっかりやる。任期の2年を見ててよ!」
 と里村が宣言、
 「俺たちは、鹿部の誇りだと思っているよ」
 と道場氏が激励する本音大会になった。
 星野哲郎没後2年の夏も、僕らはこんなふうに彼の遺徳のおすそ分けにあずかった。その3回忌の偲ぶ会は10月19日夜、大手町のパレスホテルで開かれる。友人代表はこの人をおいて他になしの船村徹、それに北島三郎、水前寺清子が並び、お次は〝鹿部ぶらり旅の勧進元〟として道場登氏が名を連ねた。里村は〝協会会長〟ではなく〝ぶらり旅お供その1〟岡が〝その2〟でそれに従う。道場氏の完全快癒を願うこと切である。

週刊ミュージック・リポート