新歩道橋820回

2012年9月22日更新


  
 ♪風邪引くなんて、久しぶり、おふくろ死んだ朝以来…
 石原信一が作詞した「寒がり」という歌の歌い出し2行だ。
 《へえ、なかなかやるじゃないか…》
 と、僕はあいつの顔を思い浮かべる。
 ♪大事な人をなくすたび、寒さがつのるこの頃さ…
 と続いて、歌のオハナシは別れた女性への思いにいたる。主人公はそこそこの年になった頑固者で「やりなおせるかどうだろか」と心は揺れるが、北国育ちの寒がり同士、戻っておいでと声をかけたくなる。考えてみりゃ「ボタンひとつの掛け違い」の別れだった…。
 《そう言えば…》
 と、振りかえる出来事が二つある。ひとつは石原の母の死で、僕は彼の郷里・福島の会津若松へ駆けつけた。もう何十年も前のことだが、一面の雪景色、めちゃくちゃ寒い時期だった。彼はあの通夜の翌日、風邪を引いたのだろうか? もうひとつは、友人のシナリオライター高田純の死である。数年前に僕は石原たちと、この仲間の若過ぎる死を見送った。「大事な人をなくすたび…」に、ふとうそ寒さを感じる歌詞は、石原のその後の実感だろうか?
 1960年代の後半、学園闘争が反戦、反安保闘争に拡大して、日本が騒然となった時期がある。いわゆる「70年安保」騒擾だが、それが終息したころ、僕は当時の若者たちを集めた。仕切っていたスポーツニッポン新聞に、若者たちのページ「キャンバスナウ」を作るのが狙いだ。年が行った記者が、若い世代のあれこれを書いても、結局は若者たちをさらしものにするに止まる。それならば、当の若者たちに彼らの生きざま(当時はやった言葉だ)や感性をぶちまけさせて、紙面に解放区を作った方が、実態の芯に当たると考えてのこと。
 その執筆メンバーに、石原も高田も居た。後に推理作家として名を成す島田荘司や、ワハハ本舗を主宰する喰始、ノンフィクションの生江有二、詩人の崎南海子、カメラマンの冬夫ら、今考えればなかなかの面子。多くがデモの先頭で火炎びんを投げたりしたあとだから、理屈っぽくて参った。企画会議はもめる。型破りの紙面に新聞社内の反発はひとかたならず…。それを突破した僕らは同志ふうに盛り上がり、親交は今日に続いている。
 話は「寒がり」という作品に戻るが、歌っているのは新田晃也。歌手歴40年超の無名の歌巧者で、この男とのつき合いも長い。石原の詞を浅草の飲み屋で手にした時、新田は胸を衝かれて泣いたと言う。彼は福島の伊達市出身。地名をそのまま芸名にしている愛郷者で、石原とは同郷の血がハモったかも知れない。
 中学を卒業、すぐに集団就職列車に乗る。井沢八郎の「ああ上野駅」の世界だ。昭和20年代後半から高度経済成長期へ、若い労働力が都市に集められた時期だが、子連れ同士で再婚した親は子沢山。新田の場合、口べらしの事情もあったろう。パン屋、新聞販売店などを転々としたあと、歌の世界に入る。ひところは〝ポール〟と呼ばれて、銀座の名うての弾き語り。阿久悠が初期にナレーションもやったアルバム「阿久悠のわが心の港町」の9曲を、上村次郎の名で歌ったこともある。
 石原は一見柔和だが、根が会津の頑固者。一方の新田も、昔、業界で何があったか知らないが、他人の助力を拒んで演歌の自作自演を貫いて来た頑固者である。そんな二人が還暦をかなり過ぎた年で意気投合した。それぞれの過去も響き合った「寒がり」同士。歌社会のすみっこの話だが、歌の陰にはやっぱり、それなりの歴史がある。
 「それやこれやの行きがかりは抜きにしても、これはいい歌だよ」
 と言えば、面と向かってほめたことのない僕に、二人は恐縮のポーズを作る。それにしても双方、僕とは長いつき合いだが、どういうきっかけで知り合ったのか? そんな疑問を口にしたら二人とも、
 「何を言ってんですか」
 と口をとがらせた。彼らを引き合わせたのは僕らしいのだが、とうの昔に忘れていた。

週刊ミュージック・リポート