新歩道橋822回

2012年10月14日更新


  
 都はるみはきっと、作品ひとつひとつを自分の中へ引き込む。詞と曲、それが描く世界を、自分の血や肉に仕立て直して、改めて発信する。作品が訴えるものを、自分のイメージと思いに重ねて、その実感を聴く側に伝えようとする。当然のことながら、彼女のココロになじむ作品と、なじみにくい作品が生まれるだろう。
 石川さゆりは逆に、作品の側へ自分が近づいていく。イメージづくりや思いの重ね方は似ていようが、歌のつくり方には「演じる」気配が強くなる。作品は彼女に与えられたシナリオで、だから彼女の世界は、作品によって色あいを変えていく。都の歌がとことん彼女流であることとの、相異点がそこにありはしないか?
 この違いは決して、優劣ではない。それぞれがそれぞれの歌づくりを全うする結果の「個」濃淡、いわば芸風の違いだろう――と、僕は芝居をやりながら、そんなことを考える。9月27日から4日間の昼夜8公演、深川江戸資料館小劇場でやった東宝現代劇75人の会公演「非常警戒」(菊田一夫作、丸山博一演出)でのこと。役者稼業6年めのホヤホヤとしては、あれこれ、思いめぐらせることが多いのだ。
 秋田の田舎町、駅裏旅館喜久屋の主人・彦治が僕の役。女房と女中をわがものに、妻妾同居をきめ込む好き者で、芝居の狂言回しふうに出ずっぱり。戦後間もなくの話で、闇屋2人と元女給の女のいきがかり、泊まり合わせた謎の年増や、後に凶悪犯と知れる2人組などの人間模様が描かれ、やがて話は地元警察のぐず刑事とその子を軸に、サスペンスものに展開する。
 1カ月余のたっぷりめのけいこの中で、さて!と、僕はたたらを踏む。実生活でそんなにモテたことはないが、僕はその彦治役を、自分の中に取り込んでいくべきか。それとも台本に添って、それらしい人間像をでっち上げるべきかが問題だ。そこで大きな壁にぶつかる。自分にはない彦治なる人物を、創り出すほどの経験や技倆など、あるはずがないじゃないか!
 《そう言えば…》
 と、突然五木ひろしの顔を思い浮かべる。彼の作品をいくつかプロデュースした時の楽屋話で、歌づくりのヒミツを聞いたことがある。作品の主人公とは別に、股旅ものなら長谷川一夫、やくざ唄なら高倉健という具合いに、歌う側のイメージも作って、それになりきろうとするらしいのだ。もちろん最終的には五木本人の姿形になるのだが、いわば歌づくりの糸ぐち。なるほどな…とその時は、合点が行ったものだ。
 「役に似合いの先輩俳優を思い浮かべ、もしこの役をその人がやったら…と、突き詰めて行くやり方もある」
 と、役者さんの一人から聞いたこともある。なるほどな、モチはモチ屋か…と感じ入った例だ。いずれにしろ、赤の他人を生き生きとしてみせる術の、とばっくちのアイデアではあろうか。
 で、僕はどうしたかと言うと、所詮は新米の半可通、なまじ策を弄したところで、お里が知れると判りきっている。だから自分を丸出しでそれらしく、役をなぞって見せるしかテはない。役そのものを肚に入れる。そのうえでセリフは、自分のものとしてしゃべりたいのだが、頭で判ってはいても、なかなかにそうは行くものでもない。
 ひと芝居やるごとに、ああすればよかった。こうもすべきだったろう…と、悔いが残る。それやこれやでカッカと、頭に血がのぼりながら、だんだんそんな熱い浮遊状態が、何とも心地よくなって来るから不思議で、この商売三日やったら止められないとは、よく言ったものである。
 さて、次回は来年の一月と二月、名古屋・御園座の川中美幸・松平健合同公演だ!と、早くも切り替えて〝その気〟になる。ひと仕事終えた10月3日、また台風が近づくとかで、葉山の海岸通りに風が強い。元町あたりの浜寿司で一杯やって、ふらりふらりと風の中。歌世界への復帰は5日、埼玉の太平洋クラブ&アソシエイツ江南コースの船村徹杯コンペから…と、76才の誕生日直前の僕、何ともいい気なものである。

週刊ミュージック・リポート