新歩道橋823回

2012年10月22日更新


  
 《ウソだろ!》
 と、どうしてもそう思う。モンゴルのホーミーというのを、初めてナマで聞いての第一印象だ。一人の声帯が同時に、二種類の音楽をやるという程度の予備知識で、それと対面した。10月8日夜、両国の江戸東京博物館ホールで開かれた「モンゴル音楽祭2012」でのこと――。
 ビィーンという感触で、金属性の音が超低音で続く。僧侶のつぶした声が、少しメロディアスな読経を続けるのを連想する。これがベースになって、高音部はあちらの民謡ふう。歌うだけかと思ったら、急に篠笛みたいな音に変わり、風の中を野鳥の翼がひるがえり、さえずる情景まで生み出した。演者は中年の男性、聞けばユネスコの世界無形文化財に指定されているベテランとか。
 若者が登場すると、こちらは今ふうにヒップホップである。リズム・セクションをいいノリで再現して、それにメロディーを加える。口琴も使い、合い間に掛け声までまじえて、一人何役分に当たるか。突然、声帯模写のえんま堂を連想した。ボイスイリュージョンと称する彼の芸も相当なものだが、あれの二人分を一ぺんにやっているみたい。舞台を見回すが、中央に立つのは青年一人、
 《そんなことって、あるのか!》
 とこちらは、驚くばかりだ。
 モンゴルと日本は、今年が国交40周年だという。大相撲は二人の横綱を筆頭に、まるで乗っ取られでもしたみたいにモンゴル力士だらけ。その第一号の旭天鵬からのコメントが、音楽祭のプログラムに載っていた。先々場所に優勝しているが、入門20年目で関取最年長。
 「私もまだまだ頑張るけど、この音楽祭も長く続くように…」
 一緒に頑張ろうと、粘り強さ、しぶとさもお国柄か。
 馬頭琴が出て来た。胴の部分を両膝ではさんで、弓で弾く。これがまたズンと体に響く低音から、力強い高音で、二胡の哀調と競り合う。横長の琴は右端を膝に乗せて、傾めの位置どり。右指が低音部をゆったりめに弾き、左指が細かい譜割りを小走りに艶やかだ。つむぎ出された音楽は、山から山を渡り、谷を走り抜け、大草原を馬でゆく野趣。点在するゲルと呼ばれるテントまでが目に見えるようで、これが遊牧の民の民族色なのだろう。
 こんなイベントを企画制作したのは、創樹社の山川泉氏。ひょんなことから知り合ったが、かつていずみたくの許でミュージカルも作っていた。シルクロードの音楽調査に出かけて、モンゴルの音楽に触れたのが37年前。一念発起、この音楽祭を始めてから、今年が11回目という。大きなホールに観客が100人前後。お世辞にも盛況とは言い難いが、彼なりの使命感があってかコツコツと、こちらも地味だが相当な粘着力の持ち主だ。
 日本人歌手の伊藤麻衣子も加えて、歌も何曲か。声帯を押しつぶして出すような発声が、これも金属性の〝つくり声〟で、楽器群に似合う。「母を想う歌」は加藤登紀子の詞もまじえて2カ国語で歌われた。世界中の〝いい歌探し〟に没頭した加藤の足跡が、こんなところにも残るかと、感慨が少々、モンゴル歌謡の「渡り鳥」は、日本語の詞でゆったりめのシンプルなワルツ。
 《なるほどな…》
 と、遠藤実作曲の「北国の春」が、あちらでもてはやされていることを思い出す。遠藤がモンゴルの音楽にひかれて、長い交流を持ったことにも、合点がいった。
 休憩時間、ロビーや客席で交わされる会話には、モンゴルの旅の楽しさがあちこちで。空と草原と風以外には、何もない自然の貴重さと率直な驚きが、口々に語られている。モノだらけでそのくせ満たされないこちらの世界を、ひととき振り返ってのことか。
 《70も半ばを過ぎても、初めてのものってまだずいぶんあるよな》
 雑文屋冥利を噛みしめて、ガード下の飲み屋に寄る。去り難さのひとり酒、胸の中を風が渡ったが、これはこれで悪くはなかった。

週刊ミュージック・リポート