新歩道橋831回

2013年2月1日更新


 
 「我らは死ぬまで、いや死んでも悪あがきをして、この世をよりよく変えていかねばならぬのだ。百年先、二百年先に生きる子供たちのことを考えたことがあるか!」
 そんなセリフが昨今の政治状況への批判にも聞える。一、二月、名古屋御園座で上演中の、松平健主演「暴れん坊将軍・初夢江戸の恵方松」の一景。松平扮する八代目将軍徳川吉宗が、反吉宗のクーデターを企てる首謀者・老中久世和泉守を指弾するシーンだ。
 《ほほう・・・》
 と面白がって台本を見直せば、似たような文言があちこちに埋め込まれている。いわく|、
 「年来の大雨、噴火による不作で、民百姓は疲弊しきっております」
 「景気が悪いでしょう? 人の心がすさんで、乱暴な連中が増えましたよ」
 「皆、政治の駆け引きに血道をあげ、己の出世と安泰だけだ。どのような清水も溜めれば腐る・・・」
 「ま、誰も今の政治(まつりごと)に、何も期待しておらぬということですかな」
 民主党が政権を取って3年余、言うこととすることの乖離に呆れた国民は、仕方なしにまた自民党を選んだ。その間に3・11の惨が起こり、放射能不安が蔓延したが、復旧復興は手つかず。選び直しはしたが自民のやり口を信じる気にはなれない。経済再建の三本の矢とやらにも、疑心暗鬼だ。「暴れん坊・・・」はおなじみ勧善懲悪の痛快劇だが、脚本の斉藤雅文はその中にも、こんなふうに、現代の民意を反映させていることになろうか。
 今回の御園座は、松平と川中美幸のダブル座長公演であることは、前回のこの欄に書いた。この思い切った新機軸の、もう一方の川中主演劇は「赤穂の寒桜・大石りくの半生」で、いわば〝女たちの忠臣蔵〟。美挙よ、義士よ、赤穂の誉れよ、と讃えられる四十七士の、陰の女たちの苦悩がテーマになる。かなりの比重で描かれるのが、浪士潮田又之丞の妻ゆう。討ち入り前に離縁されるが、後に再婚して女の幸せを獲得、
 「潮田は死んで義士の天晴れと褒め称えられましたが、離縁された妻は、たとえ死んでも野垂れ死としかみられなかったでしょう。何が何でも生きて幸せにならねばとおもいました」
と言い切り、内蔵助に添い遂げたりくに、
 「赤穂義士の妻が、夫の名を辱めるのか! 恥を知れ! とお蔑みなさいますか?」
 と反問する。そう言えば僕がやっている大野九郎兵衛も、赤穂藩家老でありながら、家財をまとめて敵前逃亡!? 到底、褒められぬ一人である。
 脚本の阿部照義はその辺の経緯を
 「命が惜しい者、家族のために脱落した心弱き者、卑怯未練な者たちにも、生きる権利はあって当然。彼らが居てこそ義士たちは光り輝いたのではないのか」
 と書き、1パーセントの強者・富者と99パーセントの弱者・貧者に分かれる現代に通じるものを狙ったと語る。そう言われれば家名と親子という絆と夫の信念に殉じ、時代に翻弄されたりくも、決して、強者ではなかったろう。忠臣蔵異聞を描いて「弱者に光を!」が彼のテーマ。
 《ほほう・・・》
 と感じ入らざるを得ないではないか。
 今公演は言うところの商業演劇。松平、川中のスター二人を中心に、華やかな共演陣を並べて、大衆の関心や興味を集める娯楽作二本立てだ。理屈っぽい時代観や人生論を展開する深刻劇とは一線を画して「客に楽しんでもらうこと」を第一とする路線である。しかし、そう書いたら叱られそうだが、一寸の虫にも五分の魂。二人の脚本家と2作品を演出した水谷幹夫は、娯楽作でも、あるいは娯楽作だからこそ、こういう形で時代を照射し、観客に語りかけているのだろう。そう思えば今公演に参加する僕も、ひそかに快哉を叫びたくなる。
 とはいえこの二ヶ月間、決して僕は屁理屈こねてしゃちほこばっている訳ではない。芝居する人たちの心優しい微笑み返しの中で、喜々として過ごす劇場内外の昼と夜を、十分に楽しんでいるのだ。

週刊ミュージック・リポート