新歩道橋835回

2013年3月11日更新



 一途と言うか、ここを先途というか、久々にまっしぐらの歌を聞いた。2月26日夜、九段のホテル・グランドパレスで開かれた「船村徹同門会ディナーショー」でのこと。何しろ師匠の船村が客席中央最前列に陣取っている。主賓の席はステージに背を向けているのだが、弟子の静太郎に言わせれば、
 「先生は背中に眼を持っている」
 という威圧感。そのせいか、門下生の歌の気合いの入り方は、尋常ではない。
 白眉は中山一郎の「母は灯台」だった。船村の作品は馬に例えれば悍馬である。ことに働き盛りの往年の作品がそうで、おたまじゃくしが五線譜上であばれ、はやって、なまじの歌手では歌いこなせない。それを中山は、人馬一体の趣きで、これでもか! とばかりに歌い切った。
 後で聞けば八十二才、肝臓がんを患って余命の宣告も受けていると言う。しかし、そんな気配は微塵も見せず、声量十分、若々しいまでの覇気で、もしかするとこのステージに「歌い納め」の覚悟をこめたか? と思うくらいの出来栄えだった。
 眼をつむり、黙然と聞いていた船村は、軽く二、三度うなずいた。「よしっ!」の感想がそういう形であらわれたのかも知れない。もう一人、同じ反応を呼んだのは北晃治の「海鳴りの詩」で、マイクを持つ手の背広の袖口からズボンの裾までが、ビリビリ震えるくらいの力唱。それでいて2コーラス、少しの破綻も見せない剛の歌に仕立てた。
 船村がナプキンでそれとなく、涙をぬぐったのは三宅広一の「逢いに来ましたお父さん」の時だ。昭和三十二年、少年歌手だった三宅の歌でヒットした靖国神社参拝ソング。「九段の母」や「東京だよお母さん」に通じる世界だが、熟年三宅の歌は率直に飾り立てることなく、歌の思いに自分の思いをしみじみと重ねた。それに誘われたろう船村の涙は、往時を思い返してのものだったか、今の国状を思ってのものだったか・・・。
 無名だがベテラン3人の芸には、年季が生きていた。激唱しながらなお、自分の野心は秘め、作品世界に没入して、それぞれが作品に血や肉を加えていた。それに比べれば中堅、若手の越前二郎、静太郎、天草二郎、走裕介らの歌には、青年の客気が目立った。師匠の楽曲で何とか〝自分らしさ〟を作り、アピールしようとする野心である。
 売り出し前の歌手には、それはあって当たり前。あれやこれやを寝ずに考えての自己顕示で、芸ごとはそんな生々しさからスタートする。そのうえで、あちこちに頭をぶつけ、試行錯誤を繰り返す。結果、生まれるのは歌をこね回す悪癖だが、そんな中ではた!と、何かに思い当たる時が来れば、彼らはそれぞれの自分〝らしさ〟を見つけ、楽曲を生きることの肝要さに気づくのだろう。それまでは何はともあれまっしぐらしかない。前述のベテラン3人は、そんな時期をとうに超えて、身を捨てこそ浮かぶ瀬もあれ・・・の境地に達しているように思えた。それでいて歌が、決して枯れてなどいないしぶとさが、船村門下生のゆえんかもしれない。
 同門会会長の鳥羽一郎は「稚内ブルース」を歌った。船村作品には、隠れたいい作品が沢山あることの一例。それをうまいこと、作品を生かしながら独持の鳥羽節で、二つの勘所を両立させてみせた。スター歌手の地力と言えようか。船村の内弟子たちはみな、尊敬する兄貴分・鳥羽の歌い方に染まり、そこから脱け出ことで歌手への道を開く。この夜ステージに立つチャンスを貰えた大門弾は、目下師匠の身近で働く最後の内弟子。
「故郷の山が見える」を歌ったが、何をどうしたのかまるで覚えていないほどの緊張ぶりか、かわいかった。
 いずれにしろ究極の演歌は、〝ある種の「過剰」さ〟をその骨とにする。戯れ歌が文学に通じる歌詞、音の詩人が奔放に解き放つメロディー、それに血肉を加える歌手。それやこれやが混然として、血沸き肉躍る狂気を垣間見る瞬間を、日々、待ちこがれている僕としては、なかなかの酔い心地の一夜だった。

週刊ミュージック・リポート