新歩道橋837回

2013年3月29日更新


 
 浅草公会堂、客席最前列と舞台の間に、少しばかりの空間がある。3月17日夕、佐伯一郎はそこで歌っていた。舞台が背もたれ、左右へもあまり動かない。歌の合間に周辺の客と他愛のないおしゃべり、なんとも横着な仕事ぶりで、歌は「りんご追分」「越後獅子の歌」「みだれ髪」・・・。
 蛮声を張り上げて歌う。感情移入過多。これでもか、これでもか! の歌は、この人なりの絶唱とでも言うべきか。声を整えて・・・とか、節回しに留意して・・・とかの気配りはない。歌うことへの思い、楽曲への思い、この日この時への思いなどが、混然として声を励ましている。
 《う~む、なんだこれは・・・》
 と、僕は客席で唸る。実に何とも、一方的な歌である。委細構わず彼は、自分の歌を客席に叩きつけて来る。押し込んで来る。聴く側の間合いなど一切お構いなしで、曲は「荒城の月」だの「月の砂漠」だのに変わる。唱歌の抒情に若い日の感慨が甦るのかも知れないが、そこに昇華の感触はまるでない。やたらに荒々しく、生々しく、ここを先途・・・である。
 『断末魔』なんて言葉が浮かび、僕はあわててそれを打ち消す。そう表現しては無礼だろうし、無惨にも過ぎよう。では『物狂い』か。佐伯76才の、歌魂の行きつくところの正体。よくしたもので客席は、曲ごとの拍手で彼の後押しをしている。『一途さ』が伝わっているのだ。『気迫』と受け止めているのかも知れない。佐伯が吐き出す歌の塊りを、受け取り方はおおむね好意的だ。
 「来年でこの公演も25回目になる。そこまでは何とかやり続けたいと思って・・・」
 出番が終わった佐伯が、楽屋でポツンと言った。どうやら幕引きを考えている口調。喉頭がんの手術後、残った三分の一の声帯を鍛え直したのはずいぶん以前の話。ここ何年かで脊椎の手術を5回もした。歩くのさえ思うに任せない現状で、いわば満身創痍、それでも彼を歌に駆り立てるものは一体何なのか?
 毎年のことだが、僕への接待は茶わん酒である。互いにグビグビやりながら、しばらくは世間話。用心棒が芸名の、スキンヘッドのおやじ3人が相槌を打つ。服部弘子があいさつに来れば「今日は最高だったよ」と佐伯がねぎらう。タクシー会社の社長だった彼女は、今は会長。夫と息子に先立たれた悲嘆から、歌で立ち直ったと言う。一条健、葵恵子。南愛子、いずみ恵子・・・と、弟子たちの笑顔が続く。
 〝歌う作曲家〟佐伯は、浜松に蟠踞して大勢の弟子を持つ。作品を与え芸名をつけ、CDを作り、地域での活動もとりなす。みんな熟年、もともとなりわいとする仕事を持つ〝職業歌手〟群だ。佐伯はそんな一家を形づくって、東海地方に独特の勢力を張る。浅草公会堂公演は、いわば一家の東京攻勢なのだ。佐伯本人は東海林太郎や岡春夫を歌い、船村徹と組んでアルバムを作るなど、若いころの東京で活動した地盤を持つ。だから僕は、長く親交のある彼を〝地方区の巨匠〟と呼びならわして来た。
 そりゃあ歌手だから、テレビによく出て、全国に歌と名が売れた方がいい。CDを出すのだから、それが沢山売れて、ヒットチャートの常連になったら最高だろう。しかし、それだけが歌手の力量を計る物差しではない。無名のままでも、地域限定の仕事でも、なじみの客と膝づめの舞台で、心に沁みるいい歌を歌う奴だって歌手だ。「いつか紅白歌合戦に・・・」と、なんとかの一つ覚えのセリフを繰り返す未練を断ち〝地方区のスター〟として胸を張る歌手が頑張っていてもいいじゃないか! 第一「紅白」は、ずいぶん昔から演歌・歌謡曲の殿堂なんかじゃなくなっているんだ!  東京近郊には新田晃也が居り、名古屋には船橋浩二が居る。福井あたりの越前二郎は、この日の浅草公会堂にも出ていた。みんな知る人ぞ知る歌巧者で僕の友人。そんなグループの代表が佐伯なのだ。彼はおそらく、歌生涯の総決算として、来年浅草公会堂をやるのだろう。僕はきっとそれを、聴きに行くのではなく、見届けに行くことになるのだろう。

週刊ミュージック・リポート