新歩道橋842回

2013年5月17日更新


 
 『国敗れて山河あり』
 太平洋戦争が終わった昭和20年過ぎ、命からがら外国から日本へ還った人々は、きっとそう思ったろう。ロシアや中国、韓国などからの復員船は、舞鶴ほかの港で、上陸前の船泊まりをする。
 (庵点)かすむ故国よ小島の沖じゃ、夢もわびしくよみがえる・・・
 田端義夫の「かえり船」がもし聞こえたら、胸衝かれる思いは痛烈だったろう。
 出迎える側は、多くの都市が灰燼に帰して、肉親を失い、混乱の極の中に居た。それでも、
 (庵点)熱い涙も故国につけば、うれし涙と変るだろ・・・
 と、帰還者の胸中を思う心は、かろうじて残っていた。そんな双方の心を揺すったのが、昭和21年に世に出た田端のこの歌である。当時、小学校4年生だった僕も、この歌を聞き、歌うたびに涙ぐんだものだー。
 清水みのる作詞、倉若晴生作曲の「かえり船」は、こういうふうに〝痛恨の戦後〟を歌い当てた。作家や歌手の意図をはるかに超えて、作品が『時代の歌』に育った一例だろう。大流行のあとに、そう再確認される作品と出会った歌手は、おおむねその後が低迷、『一発屋』という有難くない称号!?を与えられる。ところが田端の場合は違った。戦前に出した「別れ船」に新作の「かよい船」などがヒットシリーズになり、〝船もの〟のジャンルを興して、人気歌手の座を維持する。「玄海ブルース」が続き、白鳥みずえとのデュエット「親子舟唄」も出る。
 言うところのマドロス姿でギターを抱え、
 「オ~スッ!」
 と舞台に登場した。キャラと決めポーズを持った、当時としては珍しいタイプ。それがあの、鼻にかかった発声と、大きめのビブラートで、哀調切々・・・の歌唱という特異な独自性を持つから、鬼に金棒だった。おまけに栄養失調で片眼の視力を失う赤貧の幼少時代、薬屋、菓子屋の丁稚奉公から鉄工所などへ転々とした少年時代・・・そんなサクセス・ストーリーこみの庶民性まで身につけた強味もあった。
 デビューは昭和14年「島の船唄」で、一作目からヒットに恵まれた。戦前、戦中から戦後もしばらく、流行歌の主流を占めたのは音楽学校出身者だった。クラシック発声、折目正しい歌唱の、いわば硬派である。それに比べれば田端は、異端の軟派のひとり。一部に、
 「退廃的で軽薄である」
 の評価が根強かった。大衆は支持したが、オカミのお覚えはめでたくなかったのだろう。戦中の人気歌手がこぞって軍歌を歌ったのに、田端には「梅と兵隊」がある程度。これすらも物悲しげで、とうてい士気を鼓舞するものではなかった。しかし、かえってそれが田端の利点になったかも知れない。民主主義の戦後へ、「変節」のイメージ抜きで移行できたせいだ。
 「大利根月夜」「島育ち」「ズンドコ節」など、今も歌い継がれるヒット曲を多く持つが、僕は彼の世界の頂点は「ふるさとの燈台」だと思っている。清水みのる作詞、長津義司作曲のこの歌は音域が広い難曲だが、日本の原風景、父母への思い、望郷の念が歌い込まれ、田端の歌唱も、はやり歌の楽しさから、抒情歌への昇華を伝えて清爽の気に満ちている。
 結婚4回、艶福家として知られた。古賀政男音楽財団が運営する「大衆音楽の殿堂」の運営委員会で、僕は何度か最晩年の彼と同席した。席につくなり田端は、ニコニコと艶話をはじめるのが常。
 「大事なのはおなごですな。男は幾つになっても、惚れ続けなあきまへん。私? ええ、今もってそっちの方はちゃんと現役ですわ」
 あれはもしかすると、七面倒な議論が始まるのへ、韜晦の先制攻撃だったかも知れないし、芸やる人の信念めいた本音だったかも知れない。
 4月25日、田端義夫は94才で現役最古参のスターとして逝った。功成り名とげてなお〝バタやん〟の愛称で呼ばれ続けた庶民派の大往生である。戒名も墓も作ってあって、遺志による家族葬が営まれたが、あれだけの大物である。当然「お別れの会」が準備中で、7月、田端家と歌手協会、テイチクが施主に名を連ねることになりそうだ。

週刊ミュージック・リポート