新歩道橋847回

2013年7月8日更新


 
 またしても星野哲郎である。亡くなってもう3年になるのに、全然「居なくならない」人だ。私淑して弟子を自称、やがて本人からそれを許されたせいか、何を読んでも何を聞いても「星野」という名は抜け出して、目に飛び込むし、耳に響く。
 「日本という国は戦争に敗れて以来、なぜか古いものをやたらにぶちこわして、前進することを徳と思い込んでいるようですが・・・」
 という彼の文章にも「ン?」と即ひっかかった。そんな時流から流行歌の世界も例外ではないが、その中で「古きよきものを守り抜くことは、決して〝怠惰な姿勢〟ではない」「ポップス化が進む演歌の世界にあって、僅かなニーズのために伝統芸を書き続けることは、守りではなく攻撃的行為であると思うのです」
 と言い切っている。
 柔和な笑顔の眼をしょぼしょぼさせて、言動決して激することのなかった人にしては、ずいぶんきっぱりした発言である。もっともそう書いて少々テレたのか、ひょいと例え話を一つ。
 「青首大根の全盛期にもかかわらず、昔ながらの辛い三浦大根を欲しがっている僅かな人のために、採算を度外視して作る百姓がいるように・・・」
 と付け加えているのがオカシイ。いずれにしろ少数派の旗頭としての哲学や、意気も意地も開陳して、明快である。驚いたのはこの一文が昭和49年1月のもだったこと。この人は平成も4分の1世紀に達した今日の流行歌状況を、40年も前にもう見抜いていたことになる。
 この示唆に富む一文が載っているのは、日本音楽著作家連合が創立40周年を記念してまとめた随筆集「百華百文」だ。作詞家藤田まさとが興して、初代会長を務めたこの団体は、作詞家、作曲家、アレンジャーと、歌づくり三位一体の人々が加わる。目下会員470人超と、大世帯に育っているが、星野と松井由利夫が二代目と三代目の会長をやり、現在は志賀大介がその責を担っている。
 この「百華百文」が滅法面白いのだ。「寄稿」、「わが青春」のブロックでは、名だたる作家たちの流行歌と向き合う姿勢が率直だし、「あの頃この一曲」のブロックは、作家たちのデビュー作、出世作などのエピソードが、実に具体的に、人との縁、運命やツキとの遭遇として綴られている。いわば「名曲はこうして生まれた」の、当事者証言集である。雑文屋の僕など、折りに触れて聞き貯めして来た部類のネタだが、これが91人分もズラリと並ぶのだからまさに宝の山。「寄稿」や「わが青春」には、昭和38年にスポニチの音楽担当記者になりながら、ついに教えを乞う機会に恵まれなかった藤田まさと、藤浦洸、古関裕而、堀内敬三、竹岡信幸、矢野亮・・・といった大物作家の素顔に触れることまで出来る。
 なかでも次男の佐藤四郎氏による「父・サトウハチローの思い出」には、読みながら声を出して笑った。※印つきの箇条書きが7項目。いわく「コンビーフはみみずの匂いがするから、きゅうりはイボイボが気味が悪いからとハシもつけない」「指先をちょっと切ったくらいで、死ぬ時はどうなるのか? 飲み過ぎて疲れただけなのに、不治の病の名を並べ立てる」「芸者遊びにオフクロを同行、お姐さんたちをさんざん遊ばせて金を払うことしょっちゅう」「瑞宝章受章の祝いにテレて、お金はついていないんだってサ」「ムリだよと言うのに算数の宿題をやってくれたが、結果は0点に近かった」
 「習字は得意というから代作してもらったら、赤ペンで先生が〝詩をお作りになっているお父様を見習いなさい〟」・・・。
 実は掲載されたエッセイ全部が、この40年間の連合の会報に寄せられたものだった。ということは毎号届けてもらっている僕は、その都度目にしていた勘定になる。ところが雑文屋の斜め読み、心に止まることが少なかったのに、今になってびっくりする。その不明は大いに恥じなければなるまい。「百華百文」は311ページの非売品の豪華本。編集委員長下地亜記子以下の努力に敬意を表しながら、1ページごとに僕は自分の昭和も重ね合わせて、尽きぬ楽しみを味わっている。

週刊ミュージック・リポート