スーツ姿の初老の紳士たちが、田端義夫の霊前に花を手向ける。一般ファンの部、粛然とした列が続いて200人ほどか。もちろん熟女たちも加わってはいるが、近ごろよく見かける浮き浮き集団とは、かなり雰囲気が違った。
《昭和が押しかけてきた。田端の歌とこの人たちの青春は、まさに表裏一体なんだ!》
7月3日午後、帝国ホテルで開かれた「田端義夫さんのお別れ会」の会場で、僕は胸にこみ上げる思いに、人知れず狼狽した。
《やっぱり「かえり船」かなぁ》
終戦のあくる年昭和21年に発売されたこの歌は、文字通り日本人の心を揺すぶった。敗戦の混乱が国内外にある。焼土と化した都会で、人々の消息は途絶え、国中が飢えていた。そこへ大勢の日本人が外地から、命からがら引き揚げてくる。生まれたのはどん底の再会劇だが、人々は苦難や失意、絶望に屈することなく、明日への一縷の希望を見つけようとした。そんな世相の主旋律みたいに、田端の「かえり船」はあのころ、全国に浸透した。彼が後にこの歌を、
「あまり感情をこめず、出来るだけ淡々と歌った」
と語るのは、当時の人心のやる瀬なさを身をもって知ったせいだろうか。
4月25日病没、94才、現役第一線のスターのまま・・・とは言え、正直なところ過去の人と、僕は思っていた。「お別れ会」は、遺族とテイチクエンタテインメント、日本歌手協会の合同で催された。祭壇は南国の花でカラフルに、会場には参会者の〝うわさ供養〟のよすがとして、沢山の思い出写真のパネル。愛用した衣装の背中には、肩口からギターを支えたストラップの跡。「オ~ス!」と片手を挙げた等身大の写真や、小指を立てた彼らしい大写真などもそこいら中に並ぶ。流れるのは「島の船唄」「玄海ブルース」「大利根月夜」「梅と兵隊」「ふるさとの燈台」・・・。3カ所のプロジェクターには公開中の彼のドキュメント映画の抜すい・・・。
亡くなった直後に営まれた家族葬から2カ月余あと、これがいわば本葬なのだが、セレモニーなし、軽い食事と酒で終始ご歓談・・・という趣向は、明らかに偲ぶ会の演出。終生「バタヤン」と呼ばれた彼の庶民性と人柄が生かされていた。何しろ当の本人が歌手生活74年の大ベテラン。参会者はそのキャリアのどこかで親交のあった人ばかりである。三々五々で交わす550人余の思い出話をかき集めたら、きっとぼう大な昭和歌謡裏面史が生まれたろう。
あちこちで、記念写真用にケイタイのシャッターが押される。集まった歌手たちは、親しげな笑顔の輪に囲まれる。「俺は九州のバタヤンだ」と名乗る紳士は、持ち込んだギターで弾き語りを始めた。耳をそばだてれば、同窓会や同郷会ふうな会話が聞える。歌社会の先輩後輩のあいさつや、同業のよしみの遠慮のない放談までが飛び込んで来る。なごやかと言えばなごやか、にぎやかと言えばにぎやかで、去り難い気分か、お別れ会だと言うのに笑顔のオンパレードが続く。そういう和気あいあいの中で聞けば、哀調の田端節もなぜか、浮き浮きとした気分を誘う妙がある。
そんな会場の祭壇前の空気を、一瞬変えたのが冒頭に書いたシーンである。そこには一つの時代を歌い当てた作品、清水みのる作詞、倉若晴生作曲「かえり船」の、67年におよぶ歌の生命の根強さがあった。それと同時におそらくは、田端のこの歌と一緒に生きて来ただろう昭和の青春の行列である。会が始まって2時間後、入れ替わりに行われた一般ファンの献花。とうの昔に立礼の場を離れ、歓談に加わっていた尋美夫人、長女の沙穂里さんとテイチク石橋誠一社長、歌手協会田辺靖雄代表理事は、率先して立礼の位置に戻った。献花する人々の真摯な気配に心うたれてのことだったろうか?
「過去の人だなんて、とんでもなかったな・・・」
肩をすくめて再確認を口に出した僕に、
「う~ん」
傍に居た元テイチク宣伝マンの原田英弥が唸った。6月30日と7月1日、実父一弥氏98才の通夜葬儀を終えたばかり。彼は彼でことさらに、深く感じるものがあったのだろう。