新歩道橋849回

2013年7月26日更新


 
 その昔、彼は親しい人々から〝トラちゃん〟と呼ばれていた。
 《タイガーズのファンなのかな。関西出身かも知れない》
 僕はそんなふうに聞き流していた。昭和40年代の初めごろから、よく彼を見かけたのは、溜池にあった日本クラウンでの話。
 7月17日夜、グランドプリンスホテル高輪で開かれた。中村典正の作曲生活50周年を祝う会で、そのニックネームのいわれを聞いて、僕は笑った。中村は上京当時、歌手若山彰の鞄持ち。空港で搭乗券を買う段になったが、若山は彼の姓は知っていても、名前までは判らない。面倒だから〝中村寅??〟と書き込んだそうな。そのころプロゴルファーとして高名だった人の名で、彼は親愛の情をこめて〝寅さん〟と呼ばれていた。
 僕は昭和31年に茨城から上京、スポーツニッポン新聞社のアルバイトにもぐり込んだが、同輩の少年たちと一緒くたに「ボーヤ」と呼ばれた。雑用係りには姓名など必要なし、内勤の記者たちの「ボーヤッ!」と呼ぶ声に、付近にいた誰かがすっ飛んでいく役割だった。その後38年に取材記者に取り立てられて、創立したてのクラウンに日参したが、レコード会社も新聞社も、そんな牧歌的な雰囲気の時代だったー。
 中村の50年を祝って、彼の作品で芽が出た歌手たちが、次々に登場した。門脇陸男が「祝い船」川野夏美が「あばれ海峡」森若里子が「浮草情話」長保有紀が「火縁」藤あや子が「むらさき雨情」・・・。乾杯の音頭を取った鳥羽一郎が、
 「数えてみたら、書いて貰った歌が27曲もあるよ。覚えてますか?」
 と笑わせながら「男の港」を歌い、最新の弟子三山ひろしが「人恋酒場」と「男のうそ」を歌った。
 中村はもともと歌手志願。それが紆余曲折あって作曲に転じ、中村千里、中村典正、山口ひろしと、三つのペンネームを使って頑張った。昔から口下手、世渡り下手と、一目で判る風貌と挙措のせいか、僕も会えばあいさつはしたが、同じクラウンに通いながら、ついぞ話し込んだことはない。しかし、彼が書いた曲だけは折りにふれてよく聞いて来た。いわば〝男唄の手練者〟である。太い幹を鉈で削って仕上げたような、骨太の作品に魅かれた。歌手や詞によっては、あれこれ装飾が増えるが、幹に当たる部分は同じ。枝葉を残して賑わいを加える風情で、そこが作品のなじみやすさに通じただろう。昭和から平成へ、中村典正はそんな作柄で、演歌の下支えをして来た一人だ。
 夫人は歌手の松前ひろ子で北島三郎の姪。若いころは高嶺の花で、松前の第一印象も、
 「あんなおじさんなんて、嫌!」
 だったそうだが、彼女が交通事故にあい歌えなくなった時期に、
 「とりあえず結婚しよう」
 と申し入れて、初志を貫徹したらしい。彼女が歌手として再起するまでを、作曲家として支えたのが彼・・・ということになるが、私生活はまるで逆。横のものを縦にもしない手間のかかる亭主を、もっぱら彼女が切り盛りして、家庭を作り子をなし、孫にも恵まれての今日だ。
 ひところ大病をしたらしく、ますます寡黙で無表情の中村を、この宴でも松前が甲斐々々しく引き立てた。
 「このひと、心だけは真っ白なんです」
 と涙ぐみながら、松前は「祝いしぐれ」や「愛に包まれて」を、中村とデュエットする。松前の右手と中村の左手の、指と指をからませ合う手のつなぎ方が、はじめ〝夫唱婦随〟近ごろは〝婦唱夫随〟のなごやかさで、松前は天晴れの賢夫人ぶりである。
 「人生にはチャンスが二度ある。二度めをしっかりつかまえよう」
 というのが、遅咲きの弟子三山へ、挫折を体験した師匠中村の教えだったとか。その弟子の打ち明け話、
 「マンボが駄目になった」
 と師匠に言われて目が点になったが、
 「実はお掃除ロボットのルンバでした」
 のくだりには、会場の皆が大いに笑ったものだ。

週刊ミュージック・リポート