新歩道橋852回

2013年9月1日更新


 
 北海道・鹿部に居る。この地名、この欄でも20回以上書いているから、ハハン・・・と思い当たる向きもあろう。作詞家星野哲郎が〝海の詩人〟のおさらいで、毎夏21回も通った先、
 「先生の故郷、山口の周防大島よりも、ずっと多く来てくれた」
 と、町の人々が自慢するところだ。
 その「鹿部ぶらり旅」を記念するモニュメントが出来て、8月20日、除幕式が行われた。道場水産の社屋前、白みかげ石の柱二本の間に黒みかげ石の銘板をはさんだ縦2メートル、横90センチの堂々たる代物。銘板には、
 「道場水産道場登さんへ・感謝」
 の文字が大書され、建立者には、星野哲郎、里村龍一、岡千秋、小西良太郎の名が並ぶ。道場氏は〝たらこの親父〟の愛称で知られる愛郷の有力者で、島津亜矢の「うれし涙の登ちゃん」のモデルと書けば、読者諸兄姉は再びハハン・・・だろう。 ぶらり旅はこの登ちゃんの、物心両面の熱い支援で続いて来た。星野の北海道後援会長を自認、その大きな業績と温かい人柄にゾッコンで、しばしば、
 「星野先生は、めんこいなァ」
 と、少年のような眼を輝かせ続ける人だ。水産加工会社を一代で築いた力行の苦労人。小柄でやせぎすの愛すべきキャラで、彼を漫画チックに描いたイラストも、モニュメントの銘板を飾っている。 星野の没後も里村、岡と僕は詩人の名代の形でぶらり旅を続けている。毎年好意に甘える実情を、
 「先生と俺たちは、登ちゃんのひと財産くらい飲み尽くしてるなァ」
 と僕らは思い、酔余、モニュメントづくりを話し合った。元気ならば星野は、今年が作詩生活60周年、3年前に88才で亡くなったから88才の米寿に当たる。ころはよし、星野の感謝の思いもこめて・・・と実行に移す。星野の長男有近真澄もまき込んで、製作費は4人で割勘・・・と、演歌的なドンブリ勘定だ。
 有近に否やのあろうはずもなく、4人打ち揃って出かけた鹿部は、到着直前に例のゲリラ豪雨、それが間もなくカラリと晴れるのを、
 「登ちゃんの人徳だろ」
 と勝手にきめ込む一幕もあった。
 生まれて初めて除幕の綱を引いた4人は、現われたモニュメントにウッ! と息を詰める。地元を代表、建立に尽力した新栄建設岩井光雄社長と町役場の佐藤明治課長は涙ぐみ、道場氏の長男真一専務と二男登志男常務は正装の目が真っ赤だ。登ちゃん夫人の尚子さんは甲斐々々しく内助の功そのものの立ち居振る舞い。それを道場家の女たちが手伝い、登ちゃんの孫の女児5人があたりを駆け回る。取り巻くのは顔見知りの鹿部の人々50人余の笑顔・・・。
 当の登ちゃんは、口をへの字に結んで、天晴れの主人公ぶりだったが、式後の祝賀会の隅っこで感激丸出し。前夜はまだ見ぬ記念碑にまんじりともせず、午前二時過ぎに酒を飲んでやっと寝た・・・と告白して、うれし涙を拭った。
 「星野も喜んでいるでしょう」と長男の有近。 「年寄りを喜ばせるのもなかなかいいもんだ。これは鳥羽一郎の〝北斗船〟の歌碑と並ぶこの町街の名物になるだろう」
 と、いい気なのは里村、岡と僕。そこから先はいつものぶらり旅同様、無礼講の2泊3日である。
 鹿部は函館から川汲峠を越え、噴火湾沿いに車で北上して小1時間、人口5千の漁師町・・・と、これもずいぶん書いた。それが昨今、新川汲トンネルとバイパスが出来て、大分近くなっている。そこでの僕らの遊びは、朝6時出発の海釣りとゴルフ、合い間に絶え間のない酒宴・・・。
 今回の釣りでは僕がこの日一番の大型黒ゾイを筆頭に、ガヤ(めばる)あぶらっこ(あいなめ)など10数匹と上々の出来。海中で暴れる黒ゾイを、1メートル近い!・・・と僕が叫ぶと、岡が40センチはあるか!・・・と検証する。ガヤはガヤガヤするほど沢山居ての地元名らしく、各人ほとんど入れ食い。他にはババガレイも1尾上がって、番屋の朝食の舌づつみを盛り上げた。
 僕にとっては人生最高の釣果。そのうえ記念コンペも優勝した。人間80才に手が届く年になっても、生まれて初めてをまだ体験出来る。何たる幸せであろうか!

週刊ミュージック・リポート