新歩道橋854回

2013年9月24日更新



 「ちょっと待ってね」
 芝居を途中で止めて、演出の横澤祐一が席を立つ。スタスタと役者の輪の中へ入って、
 「ここ、こういうふうに行けないもんかね・・・」 と、その中の一人の役をやってみせる。注文というよりは提案。ツツツーと動いて、スッと振り返ってセリフ・・・って調子で、過不足なく自然に、身ぶり手ぶりがついてスピーディーだ。
 《うまいなァ・・・》 
 と僕は、けいこ場の隅でうっとりしてしまう。 9月26日からの東宝現代劇75人の会公演「芝翫河岸の旦那・十号館二〇一号室始末」は、立ちげいこに入っている。池袋・要町のけいこ場みらい館大明へ、せっせと通うベテランたち。深川江戸資料館小劇場でやる4日間6回公演のために、けいこは1カ月余。炎暑に文句を言いながらみんな笑顔で、とことん芝居が好きな人たちの集団なのだ。
 最年長の内山恵司は80才過ぎ。木材業の山岸総業の会長役で、
 「そんなことはどうでもいいんだ!」
 と、びっくりするくらいの大音声。その前に平伏して号泣する丸山博一は80才一歩手前。事情があって行方をくらました(つもり)の理由を問い詰められる、山岸総業の番頭役だ。舞台は深川、気っぷのが良い江戸っ子のやりとり。それにしても、
 《号泣なんてむずかしい代物を、何度でもくり返せるなんて・・・》
 と、僕は丸山の手腕に茫然とする。やってみろと言われたら、僕は逃げ出すだろう。
 内山、丸山、横澤は、この劇団を背負って来たお仲間。役者同志の敬意からか横澤の提案は、この二人には口だけ。
 「丸さん、こういうのどうかね」
 「うん、それならこうしようか」
 とまるでかけ合いで、それに、
 「いいね、いいんじゃないか、あはははは・・・」 と、内山が応じたりする。
 1幕11場、174ページの脚本を仕上げるに当たって、横澤は劇団員それぞれの個性と役どころをにらみ合わせ、いわゆる〝あて書き〟をしたらしい。もしかすると執筆する日々、彼の脳裡では多くの役柄と役者たちが、具体的に動き回っていたのかも知れない。だとすれば彼の演出は、それぞれのイメージと動きを修正し改善し、仲間たちの生身でドラマを改めて構築する作業に似てはいまいか?
 そう考えると僕は、寒気に襲われる。万引常習犯で保護観察下におかれる、夏目磯八というアヤシゲな中年男の僕の役を、彼はどうイメージしていたのだろう?
 「小西さん、そこのところはこういうふうに行けませんか」
 と優しげな彼の提案は、実は彼の考えと僕に出来ることのギャップの大きさを、埋める作業になってはいまいか?
 やって見せてくれる相手は、名うての芸達者。緩急実によく動いて無駄がなく、芝居は体技のお手本みたいだ。その足の運び、所作のいちいちに目を凝らしながら、僕は自分の未熟さ、不甲斐なさにホゾを噛む。
 喉に悪いか・・・と8月、煙草をやめかけたら、パイプ煙草をふかす役が回って来た。これは禁煙どころではないと、パイプを仕入れてぷかぷかやったら、やたらに目が回る。それにしても慣れぬ手つきではみっともない・・・と、そちらのけいこも加わった。結果僕の台本は、動きの矢印や止まる立ち位置に、パイプを消す場所、火をつける場所と、赤いボールペンの書き込みがどんどん増えてゆく。
 セリフに感情をこめすぎると重くなる。これは歌と同じだな。妙な身ぶり手ぶりは芝居を小さくする。うん、技術に頼るなということで、歌も同じだ。ちょろちょろ余分に動くと、舞台が濁るってか。これは歌の場合にどう通じるだろ? 双方芸ごとだから、僕は、歌と芝居の二足のわらじのあちこちへ、時おり行ったり来たりする。
 本番16日前の9月10日、僕はセリフを覚えることと動きをマスターすることで頭がパンクしかけて、まだ役づくりなど手が届かぬままにいる─。

週刊ミュージック・リポート