新歩道橋857回

2013年10月19日更新



《なりすまし症候群ってのが、あるのかも知れん》
 成田へ向かう夜汽車の中で、ふとそんなことを考える。9月末に芝居でやったむずかしい役どころ夏目磯八から、いつもの自分に戻るのに、ひどく手間がかかっているのだ。うまく行ったか否かはともかく、納得がいっていない。一カ月余のけいこの間、自分なりに少しずつ役に入る努力はした。万引常習犯で服役1年、深川のとあるアパートへ辿りついたあやしげな男・・・。
 その芝居「芝翫河岸の旦那」が、4日間6回の公演を深川江戸資料館小劇場で終えたのが9月29日。それから月も変わった10月だが、疲れがまるで抜けない。寝汗をかいてまだ夢を見る。場面も共演者も同じなのに、僕のセリフだけが全部変わっていて立ち往生。未熟さゆえの未練か。翌10月4日は千葉の富里GCで演歌杯コンペに参加する。そのための前泊で成田へ向かうのだが、こんな体たらくではゴルフになるのかどうか。
 当日は四方章人、杉本眞人と元鹿島一郎の橋本国孝がパートナー。案の定ボールを2個紛失するドタバタで106回も叩いた。背骨が鮭の缶詰めの背骨みたいにグズグズで、足許もおぼつかない。二足のわらじの役者稼業、昭和40年代にタイムスリップ、45才の万引男になり切ろうとした非日常から、一足めの流行り歌屋への脱出は、そう簡単ではないものと思い知らされる。1カ月余留守にして、シワがよった音楽業界のスケジュールを消化しながら、日々フワフワ。溜まった原稿を書き飛ばし、慈恵医大病院の検査に二度つかまり、チェウニのコンサートを見、10日は船村徹記念会館を作る打ち合わせ、11日は神野美伽の30周年コンサートを見る。
 その間にMC音楽センターのリポート用で、11月発売の新曲を聞いた。市川由紀乃の「流水波止場」が幸耕平の曲に乗って、少しラフだがインパクトを強めていて「ほほう!」である。作詞の喜多條忠に「根性をすえろ!」とハッパをかけられて、裸足で歌ったとか。「悲別~かなしべつ」の川野夏美は、中・低音を生かした弦哲也の曲で、うまく物語性を生めたから、これも「ほほう!」西尾夕紀の「龍飛埼灯台」は悲痛なサビに味があって、亡くなった育ての親・新栄プロ西川幸男会長に聞かせたかったと、ホロリとする。
 そう言えばチェウニの新曲「雨の夜想曲」もなかなかで、演歌杯の時に作曲者の杉本に「いいね」と言ったら「そうかい」と、返事はぶっきら棒だった。前半のハーフ、パットした球が、カップをのぞいて止まる残念さが何度もあって、ムッとしていたせいか。もっとも後半は41で回って上機嫌になったから、その時に言えばよかったのだが後の祭りだ。
 詞はさくらちさとである。チェウニのコンサートで席が隣りだったから、同じことを言ったら、こちらはしきりに恐縮した。星野哲郎門下生たちの桜澄舎の〝桜〟をペンネームの苗字にしたそうで、星野の弟子としては僕の妹分にあたる。チェウニがこの曲を歌うとこの人は、左手で白いハンカチを握りしめていた。ちょいとばかり、いい風情ではないか!
 忙中閑の一日、行きつけの美容院へ飛び込んで、
 「何とかせい!」
 と命じて髪をカットした。何しろ芝居が昭和40年代で、役どころが45才。床屋で当時ふうに裾を刈り上げ、まっ黒に髪を染めた。形はともかく、実年齢より31才も若く化けた黒髪が、そのまま残っているのは気色が悪い。芝居のためとは知らない向きは、急に何を若ぶって・・・と思うだろうし、自分でも、カツラを新調したみたいと、鏡の中で呆れたものだ。
 「はい。こんなもんでどうでしょう。髪が伸びたら白髪の部分が出て来ますから、その時点でもうひと工夫しましょう」
 物事に動じない美容師に促されて鏡を見たら、短く切った分だけ黒さが目立たなくなり、髪型も何とか今ふうになった。
 「そうか、これで昭和から平成に戻って来たことになるな」
 僕はこんなことまでバネにして、業界という名の社会復帰へ、鋭意リハビリ中の一幕である。

週刊ミュージック・リポート