新歩道橋862回

2013年11月29日更新


 
 歌社会の車座の酒、芝居のけいこ場、ゴルフコンペなど、最近はどこへ出かけても、年長組である。最年長のこともしばしば。本人にはさほどの自覚症状はない。ま、酒量が減り、ドライバーの飛距離が落ち、物忘れは大分前からだが、セリフ覚えはまずまずの昨今。スポーツニッポンの記者時代からずるずるずっと、歌謡界にいて、
 《いいのかなぁ、お邪魔虫のまんまで。誰も来るな! と言わないんだから、もうしばらくはいいか・・・》
 と、勝手を決め込んでいる。
 11月15日は、作詞家星野哲郎の3回目の命日。小金井市梶野町の彼の家で、盛大な酒盛りをやった。長男真澄君、長女桜子さん双方の夫妻から声がかかって、ゆかりの人々40人ほどが集まる。僕は自他ともに許す星野の弟子で、例によって年長組だから、座敷の正面、ほど良いところのソファのまん中を指示される。左側には鳥羽一郎と、遅れて来て入れ違いになった水前寺清子が居り、右側に里村龍一、入れ替わりに志賀大介と作詞家二人・・・。
 「先生からさ、龍! 道ばたにはお金が落ちてるぞ・・・と言われて、キョロキョロ見回しちゃった。その意味が判るまで25年かかった。歌のタネの話だった」
 と、里村が例のダミ声釧路訛りで言って献杯をする。
 「先生だけじゃなく、奥さんの朱実さんにも、大丈夫? といたわって貰った。毎回お金の心配をかけていた」
 と売れないころを志賀が話してまた献杯。何のことはない順ぐりに献杯リレーなのだ。
 《昔、同じことをやったな。あれは星野の作詞20周年の会だから38年前になるか》
 僕はふと往時を思い出す。星野から相談を受けて「ホテルでやる柄じゃないでしょ」と生意気を言い、当時溜池にあったクラウンレコードの横っちょの居酒屋島正を会場にした。一軒家の一、二階を貸し切り。夕方から深夜まで、都合のいい時間に来て下さいという案内で、家鳴り震動する大酒盛りである。セレモニーなし、出来たての星野のアルバム「海人の詩」を入口に積んで、勝手にお持ち帰りという趣向。目ぼしい客が来る都度指名して、一言と乾杯! を、とめどなかった。
 ペースメーカーは中山大三郎。少しカドの立つジョークで会場を笑わせ続けた。その大三郎も今は亡いから、今回は僕がその代役。星野の命日だが、賑やかな方が本人も喜ぼうと、他人の話に冗談で割り込む。集まったのが気のおけないつき合いの人ばかりだから、言葉尻がきつい客いじりも、結構笑いを生む。7年ほどの役者修行で、大音声はなれっこだし、年長組正面の席で鷹場に・・・なんてさまは、そもそも性に合わない。
 星野は80才近くまで、一日一詩を自分に課した。と言っても、それを心底楽しんでのこと。没後、残された詞を沢山読んだが、正直言っていまひとつ・・・のものが多かった。これを書いて捨て、次にこれを書いて捨て、結局、あの傑作に辿りついたのだな・・・と判る、いわば習作。詩人の仕事の道のりが一編ずつに読み取れる未完成品だ。それが残っているのは、朱実夫人の内助の証しだろうが、後々それに手を加えて、他の歌手に回さなかったあたりが、星野の詩人の誠意か。
 彼の薫陶を得た各メーカーのディレクターで作る〝哲の会〟の面々もひとかたまり。その中で深く酔ったテイチクの松下章一が、
 「哲郎と大三郎が居なかったら、俺は今日、ここにいられなかった・・・」
 と、呻き続けた。素面だと温厚寡黙な男の胸中には、二人への恩義が揺れ続けるのだろう。
 「耳触りのいい言葉を並べて形を整えてみせても、それだけの歌詞じゃ人の心には伝わらないんだ。行間に書いた人間の生き方考えた方が、にじんでいないとな」
 星野がもらした一言を、僕はずっと雑文書きの戒めとして来た。
 《それにしても、ずいぶん長い知遇を得たものだ》
 僕はやっと浮かんだ年相応の感慨をかかえて、24日から2泊3日、星野の郷里・周防大島へ出かける。墓参りをして朱実夫人の姉、筏八幡宮の宮司星野葉子さんに会うのが楽しみ。哲の会のセンガ、フルカワ、ミツイにさっちゃんとおしげが一緒である。また酔って、献杯を繰り返すことになるのかなぁ。

週刊ミュージック・リポート