新歩道橋875回

2014年5月9日更新


 
 3・11以後、東北の仮設住宅で暮らす熟年男女が60人余、バスで東京へやって来た。4月11日午後、東京駅八重洲口近くのヒット・スタジオ・トーキョー。高橋樺子という無名の歌手の発表会へ、お揃いのトレーナーを着ての応援行脚である。大震災のあと、数え切れないくらいの人々が、東北へ支援に出かけたが、今回はその逆のケース。歌手と被災者の仲をつないだのは「がんばれ援歌」という歌だ。
  〽友よ辛かろ 悲しかろ 今はふるさと泣いてても 心に春はきっと来る...
 「がんばれ援歌」を高橋が歌うと、上京組はステージに上がって、一緒に手を振り足を踏み、拳を突き上げて踊った。当初のおずおず気分はすぐ消えて、まるでお仲間の雰囲気。遠慮深げな東北人気質もハラさえ決まればなかなかの乗りで、満面の笑顔が温かい。それはそうだろう。高橋たちは震災直後の2011年4月17日には現地に駆けつけ、今年2月までに10回も被災地を回っている。救援物資を届ける旅が、被災者の好意で仮設住宅泊まり。出かける都度「お帰りなさい!」と迎えられる心の通い方...。
 〝直後〟と言えばこの歌そのものが、震災から10日後には出来上がった。言い出しっぺは関西在住の作詞家もず唱平で、仲間の荒木とよひさ、作曲家の岡千秋、三山敏が呼応した。もずに言わせれば〝共作 〟ではなく4人の〝合作〟で、その印税は全額復興支援のために無償で譲渡された。作品が生み出す利益を全部寄金。それもCD発売から作者の死後50年にわたる。「4人のうち一番若い岡千秋が、死んだあと50年...」「こんな試みは世界初」と、ジョークを飛ばしたのも、もずだ。それに高橋らの活動に賛同する、関西の人々の募金が加わる。
 高橋を僕は「かばこ」と呼ぶ。「樺子」は「はなこ」と読むのが正解だが、白樺の樺だからそれでいいか...の愛称で、もずの弟子。僕は今年3月、大阪新歌舞伎座の「松平健・川中美幸特別公演」に出演していたが、楽屋の自炊のおかずを、彼女と安田ゆうこマネジャーの差し入れで暮らす光栄に浴した。
 「こんなことがあっていいの!」
 と、同室の役者真砂皓太、園田裕久、それに下山田ひろのが驚嘆し恐縮した。期間中毎日、手を替え品を替えの心尽くしである。もずと僕の長い親交があってのことだが、高橋と「がんばれ援歌」を応援しているつもりが、逆に彼女らのボランティア支援!? を受ける形になってしまった。
 「かばこ」はえくぼ美人、暖かめのアルトで、技にこだわらぬ率直な歌唱が、人柄の良さをにじませる。それがこの作品にぴったりのうえに、被災者との合唱をリードする言動まで、ちょいとした〝歌のおねえさん〟ふう。被災した人々の心をなごませ、励ますにはうってつけのキャラだ。
 「うちの娘みてえな働きもんだ」
 「よく気がつくし、嫁にとりてえくらいだ」
 「あの歌は、おらたちの歌だよな」
 東京・八重洲のステージで、ここまでの印税の贈呈式をやり、高橋は「がんばれ援歌」のほかに「ドリナの橋」「もずが枯木で」「サラエボの薔薇」に「そんなに昔のことじゃない」を歌った。「そんなに...」は青春回想ソングだが、タイトルからも判るように大震災の痛手を風化させまいという、もずの思いが書き込まれていそうだ。
 東北の仮設住宅の人々60人余は、満ち足りた笑顔で帰って行った。バスで片道5時間、往復10時間の日帰りだったが、それを苦にしないたくましさがあった。
 高橋はもともと「石狩挽歌」を得意とする悲痛なまでにドラマチックな歌を目指す歌手だった。それがもずの感化か、平和への希求を歌うことを活動テーマにする歌手に転じた。平和を脅かすのは戦争に限らず、環境破壊、飢餓、病苦もあてはまる。この娘が「がんばれ援歌」を「生涯歌う」というゆえんだろう。
 もずは彼女を沖縄、サイパン、グアム、テニアンへの旅にも出している。戦争と歴史のあれこれを体験させる育て方の一端だろうか。

週刊ミュージック・リポート