新歩道橋876回

2014年5月10日更新


 
 母親と死別した友人に、慰めの詞を贈るーーそんな気障なことが出来る男とは思えなかった。作曲家杉本眞人に対する作詞家ちあき哲也の対応で、その詞がやがて大ヒット曲「吾亦紅」になったことは、よく知られる話。
 「それは、そうよ!」
 ずいぶん久しぶりに会ったちあきから、その間の事情を聞いた。実は平成の初めごろ、ちあき自身が母を見送っていて、しばらく喪失感から立ち直れない時期があった。母親の葬儀でボロボロになっている杉本を見て、ちあきはそんな時の自分の体験を伝えようとした。
 「しっかりして!」
 「がんばらなくちゃ!」
 なんて話法は到底とれないから、マザコンから自立する男のオハナシに仕立ててのこと。
 〽来月で俺、離婚するんだよ、そう、はじめて自分を生きる...
 という唐突なフレーズが、この歌のヘソになっている意味を、僕はヒットから7年後に、やっと得心した。そのうえでちあきはこの詞を
 〽髪に白髪が混じり始めても、俺、死ぬまであなたの子供...
 と結ぶ優しさを示す。杉本のマザコンぶりは、あの曲を歌う彼の、息づかいや心の昂り方から十分に聞き取れたが、ちあきもまた相当にそのタイプなんだ...と言ったら、相手はニコリともせずに、
 「そうよ、男ってみんなそうじゃないの!」
 と言い切ったものだ。
 ゴールデンウィークのすき間の4月30日、久しぶりに前夜から雨が降り続いた日の午後に、僕らが会ったのは渋谷にあるUSENのスタジオ。僕が長いことしゃべっている「昭和チャンネル・小西良太郎の歌謡曲だよ人生は」という番組の録音だった。親しいつき合いの作詞家や作曲家、制作者をゲストに、かかわった作品25曲前後を聞きながら、その間のあれこれを語り合う。
 選曲こそあらかじめしておくが、話はコンテと関係なしに右往左往する。僕に言わせれば〝居酒屋放談〟で、その中で物創る人の生きざま、考え方、時代との向き合い方なんぞが、面白おかしく聞き出せたらいい。有線放送ならではの、5時間近い長尺ものである。
 アシスタントがチェウニで、日本での歌手活動が15年のこの人は、判っているようでまだ判っていないことが多々あるから、時おり突拍子もないことを言い出す。その脱線ぶりもついでに面白がるのも、右往左往の一つのネタ。作詞家の池田充男を呼んだ時など、
 「ねえ、そこまでしゃべらせるの、驚いた番組だね、これは...」
 などと呆れながら、ついに彼は
 「僕、とうとう裸にされちゃったねえ」
 と情けない顔になったものだ。
 「それにしても、よく来たねえ。業界の表面には絶対出てこないお前さんが」
 とちあきに言ったら、
 「だって、良太郎さんが呼んでるって言うから」
 と、彼は目をしばたたいた。そう言えば僕をこう呼ぶのは、日本中でこの人だけである。いとのりかずこという歌手に「女の旅路」という凄い歌を彼が書いて、僕を驚倒させたのが昭和46年、当時まだ大学生だった彼とは結局40年を超えるつき合いになるが、そのころから彼は、僕の勤め先のスポーツニッポンで僕の傍らにへばりつき、
 「良太郎さん、良太郎さん!」
 だった。
 ブレークしたのはそれから7年後、昭和53年の「飛んでイスタンブール」で、筒美京平のメロ先の作品。この地名の〝タン〟にあたる音符の動きに、はまる日本語が見つからず、この地名に決めて、あとはつけ足しであの詞が出来たとか。そのころ裏方に徹して表へ出ない覚悟を、似たタイプの筒美と申し合わせたそうな。
 独特の感性と破調の表現のこの作詞家は、歌世界の異端児である。何ごとによらずその世界の流れを変える才能は、異端から出発、実績を重ねてやがて本道を形づくる。歌謡界では船村徹、阿久悠、なかにし礼などがその例。しかしちあき哲也は「かもめの街」「ノラ」ほかの大ヒットを持ちながら、依然として異端を貫く稀有の存在。その分だけ彼との放談はとめどなく尽きぬ泉のようで、時間がまるで足りなかった。

週刊ミュージック・リポート