新歩道橋878回

2014年6月3日更新


 
 かつての記者仲間で映画担当だった河原一邦から突然、歌手花京院しのぶの名が出て来たので驚いた。何でまた? と聞いたら、
 「昔、仙台へ取材に行かされたじゃない。島津さんて言ったかな、マネジャーは。古い話をいろいろ聞いたけど、まだ元気ですか、あの人...」
 と答える。ずいぶん記憶がはっきりしている奴だともう一度驚いた。彼はスポニチを定年退職してからも、もう4年くらい経っている。
 12年ほど前、花京院は、地元の仙台で草の根活動をしていた。育ての親の島津晃さんが「何とか東京へ出して一花咲かせたい」と相談に来たのは、それからまた20年もさかのぼる。
 「歌謡界にコネはなし、活動資金もなしじゃ、地盤を作るっきゃないでしょ。仙台で名前を売って、レコード出したら1万枚は売れるってくらいの地力をつけましょう。メジャー展開はそれからの話でしょ」
 僕はそんな提案をした。昨今ではインディーズというしゃれた名のもとに、地方で頑張る歌手は大勢居る。中には地域の有名人になり、東京から行くメジャー派をしのぐ人気の人もいるくらいだ。しかし30年以上前にそれをやれ! というのは、乱暴きわまりない発言だった。それを
 「よォしッ!」
 と島津さんは真に受ける。岡晴夫の前座歌手からマネジャーになり、キングレコードの芸能部に居たころは大月みやこのデビューに尽力した古強者。花京院を〝女・三橋美智也″に育てる野心を抱えて、孤軍奮闘を続けていた。河原記者に仙台に行ってもらったのは、その島津さんから、
 「仙台でもう20年頑張った。地盤は出来たから何とかしてよ。俺の寿命もそう長くはないよ」
 と談じ込まれ、何と20年! あわてた僕がビクターへ売り込む。「望郷新相馬」と「お父う」を発売したのが2003年の秋だ。
 「あの2曲がな、ことに〝お父う〟の方が、今じゃカラオケ族のスタンダードになっているよ」 河原元記者と俄かに懐旧談になったのは、5月19日のこと。手島大治というスポニチの元編集局長の通夜で、場所は碑文谷会館。手島はまだ56才の若さだったが、彼もまた僕の年下の仲間で、歌謡界からも多くの弔花を頂いた。その名札を眺めていて、河原記者は往時を思い出したのかも知れない。
 「島津さんは大震災の年の5月に亡くなったけど、花京院はその後もなー...」
 僕は彼女で08年に「望郷やま唄」11年に「望郷あいや節」をプロデュース。今年8月に出す「望郷よされ節」を目下製作中と話を続ける。11年間でシングル4枚というスローペースだが、
 「へえ、まだ終わっちゃいないんだ。花京院もそうだけど、あんたも相当にしぶといねえ」
と、今度は河原元記者が驚き、呆れる番になった。花京院の魅力は民謡調で声を張るのびのびした〝張り歌〟で、カラオケ上級者の愛唱歌になった。「お父う」と「望郷新相馬」は、里村龍一の詞に、榊薫人の曲。新曲は星野哲郎門下の高田ひろおの詞、昭和30年代の流行歌をよく知る水森英夫の曲で、編曲は南郷達也と、親しいトリオを組んだ。亡くなった島津さんの〝女・三橋美智也″にという夢をそのまま引き継いでいる。花京院の作品がみな、音域が広く、なみのカラオケ好きにはちょいとした難曲になるのは、そのせいだ。
 毎年せしめて常用するスポニチの手帳を繰る。日々のスケジュールの合間の書き込みは、5月11日が三木たかし、17日が吉岡治の命日で、スポニチ時代の僕のボスで音事協の水谷淳元専務理事は4月28日だった。7月17日にはシャンソン界のボス石井好子、8月1日には阿久悠の命日がやって来る。そんなメモを目にするたびに僕はひとりで〝思い出し供養″をする。先に逝った人々との交友が、時にひどく具体的に思い返されて、酒の味が少しずつ変わる。
 花京院の吹込みに立ち合った水森は、
 「いいねえ、いいよ」
 と手放しでほめた。しっかり鍛えられた地声が、彼の信条に合い、媚びのない巧さがあるせいか。これも島津さんが仕込んだものである。没後3年、新曲が彼への〝はやり歌供養〟になると僕は思っている。

週刊ミュージック・リポート