新歩道橋880回

2014年6月21日更新



「師よ、あなたも泣かれるのですか!」
 北島三郎以下、作曲家船村徹の弟子たちが、一様にそう思ったろう光景が出現した。ステージで彼が白いハンカチで眼を拭ってる。この夜集まった400人近くも、粛然とそれを見守った。6月12日夜、グランドプリンスホテル新高輪の「飛天」で営まれた歌供養のあとの、懇親会での出来事―。
 ステージでは、五木ひろしが「男の友情」を歌い終えた。船村はギターで伴奏をして、その傍らにいる。五木の歌唱は心技ともに、めいっぱいの熱唱だった。
  〽東京恋しや、行けぬ身は、背のびしてみる、遠い空...
 高音部にさしかかると、五木の体ははね返り、折り曲がった。レコーディングの時以外は、決して見せることのない格闘技みたいな体の使い方で、声と節と真情がキープされる。そこまで彼を一途にしたのは、伝説の10人抜き番組「全日本歌謡選手権」でこの難曲を歌い、審査委員長の船村に認められた思い出があるせい。その出会いが五木の生涯の転機になった。45年前のことだ。
 船村にはまた別の意味で、生涯忘れ得ぬ痛恨の思いがある。「別れの一本杉」のヒットで、やっと歌謡界の第一線に浮上した昭和31年の9月8日、作詞した相棒の髙野公男が亡くなる。その時髙野は26才、船村は24才。「男の友情」は髙野が遺した大学ノートに書き止められていた、いわば絶筆である。
 「俺は茨城弁で詞を書く。お前は栃木弁で曲を書け」
 隣り合わせの出身地だった髙野の提案に応じ、船村はそれまでの流行歌の常識を破る異端の歌書きとして脚光を浴びた。その後50年余、実績を積み重ねて今は王道の人となり、作曲界の第一人者の座にいる。しかし、58年前の髙野との別れを別れとはせず、今日も共に歩む生き方を貫く。その契りの歌になったのが「男の友情」だ。
 彼の誕生日恒例の「歌供養」は今年30回を迎えた。この催し自体が、髙野と、南方で戦死した実兄健一氏追善を軸にする。それに陽の目をみなかった歌たちの供養、その年度に亡くなった歌仲間への弔意が加わる。6人の僧侶の読経の中で今回挙げられた名は島倉千代子、岩谷時子、神戸一郎、藤圭子らだ。第1回は音羽の護国寺で営まれた。船村の真意をはかりかねた僕らは、
 「持って行くのは赤い袋(祝儀)か、黒い袋(不祝儀)か」
 と、たたらを踏んだ思い出がある。昭和38年以来、長い知遇を得る僕は、はばかりながら歌供養皆勤である。
 今回のステージでは、弟子たちが師匠から貰った新曲でノドを競った。鳥羽一郎が「晩秋歌」、静太郎が「ごめんよ、おやじ」、天草二郎が「一徹」、走裕介が「夢航路」、それに岩本公水が「道の駅」...。船村にとっては思いの深い島倉千代子の作品は「東京だよおっ母さん」を森若里子「海鳴りの聞こえる町」を城めぐみ「哀愁のからまつ林」を岩本の順。〝御前歌唱〟だから森若など「身が細る思いをした」と、事後にたっぷりめの体をくねらせた。演奏はレコーディング・ミュージシャンの一流どころを集めた、いつもの仲間たちバンド、司会は船村イベント常連の荒木おさむだ。それに参会者を驚かせたのは船村と島倉の「矢切の渡し」のデュエット。もちろん映像だったが、若き日の船村の体躯堂々と歌唱堂々に、笑い声と盛んな拍手が贈られる。幕切れはいつも通り、船村同門会の歌手たちの「師匠(おやじ)」で
 〽仰げば尊し師匠の拳(こぶし)...
 と、星野哲郎の詞に声を合わせた。
 祝辞の一人、福田富一栃木県知事から報告されたのは、船村が名誉県民に推されたことや、平成28年から8月11日が「山の日」に施行される陰の、船村の尽力など。来年4月には、彼の郷里近くの日光市に「船村徹記念館」がオープンする。準備を僕も手伝っているが、日光と合併した今市の市街地中心部の再開発。多目的ホールや商業施設などのシンボルと位置づけるのが記念館だ。
 それやこれやが山盛りの中の、船村の涙である。胸中に去来したものは、多岐にわたり、長い年月で体験した出会いや別れのあれこれだったろう。

週刊ミュージック・リポート