新歩道橋881回

2014年6月28日更新



 名アレンジャー池多孝春が亡くなったのは6月12日。僕はその知らせを同じ日の夜、船村徹の第30回歌供養・懇親会の席で受けた。与えられた席の主賓のテーブルを離れ、隣りの作詞家や作曲家の席で油を売っていてのこと。以前、くも膜下出血で倒れた作曲家伊藤雪彦が、三途の川を渡る時に、ビンラディンをつかまえた夢を見た話の最中だった。  演歌書きとイスラム過激派の頭目の組み合わせが途方もないと、同席のもず唱平やいではくと笑っているところへ、ひそやかな耳打ちである。  「ン?」と一瞬面喰らった僕へ、  「ああ、あの人は昔、鉄仮面のところにいたんだ」  と伊藤があっさり言う。もう一度「ン?」になった僕は、次に池多が昔、トロンボーン奏者をしていたバンド、ノーチェ・クバーナのボスの顔を思い出し、有馬徹の仇名がそれかと合点がいった。伊藤もバンドマン出身だから、きっと仲間うちの呼び方がそうだったのだろう。  池多がアレンジした曲を思い浮かべる。藤圭子の「京都から博多まで」北島三郎の「与作」五木ひろしの「細雪」芦屋雁之助の「娘よ」中村美律子の「河内おとこ節」藤野とし恵の「女の流転」大月みやこの「白い海峡」...。スポニチの音楽担当記者からはやり歌評判屋になって、  「いいぞ! いいぞ! 」  と書きまくり吹聴しまくった歌ばかりだ。曲によって親交のあった阿久悠、猪俣公章、石坂まさを、吉岡治に小沢音楽事務所小沢惇社長らの顔も出てくる。亡くなって久しい面々だが、彼らがあちらで、池多を出迎えることになるのだろうか。  島津亜矢の「お梶」もそうだが、芝居仕立てみたいにメリハリの利いた演歌の編曲が、歯切れのいい心地良さで、独特の池多流。酸いも甘いも噛み分けた、ベテランならではの味と風格があった。スタジオのロビーなどでばったり会うと、  「それでね...」  と、いきなり始まる世間話が、お人柄か全然唐突ではなく、僕はそのまま話に引き込まれたものだ。  プロデューサーとして一緒に仕事が出来たのは一度だけ。五木ひろしの40周年アルバム「おんなの絵本」で、池田充男作詞、市川昭介作曲の「小樽のおんな」のアレンジをしてもらった。当時市川は病んでいて「元気なうちに五木にも...」と頼んだ曲だが、池多を指名したのは市川。僕は「そういう訳で、よろしく」とあいさつしただけで、彼の仕事に安心して寄りかかっていた。親しい作家総動員のそのアルバムは、2004年のレコード大賞ベストアルバム賞を受賞した。後日、何かのパーティーのすみで、例によって、  「それでね...」  と始まった池多話法で、アルバムの出来をほめてもらったのが嬉しかった。  翌日の6月13日夜、作詩家協会の懇親会で、新会長になった喜多條忠と握手をし、三井エージェンシーの三井健生と銀座で飲んだ。その席で作曲家中川博之の訃報を聞く。あわてて近所でスナック「晴晴」をやっている橋本国孝に電話をする。彼はかつて中川の弟子で、鹿島一朗の芸名で歌っていた。中川が肺がんで亡くなったのが11日なのにまだ知らずにいて、電話の向こうのうろたえ方が半端ではなかった。僕が昭和38年に創立したばかりのクラウンに日参していたのは、星野哲郎の知遇を受けてのこと。文芸部の隅からチョロッとこちらへ視線を泳がせていた中川は、間もなく「ラブ・ユー東京」や「さそり座の女」でヒットメーカーにのし上がった。  年のせいかここ数年、親しい人を見送ることが多い。その都度霊前で、逝った人の無念や心残りを、僕の仕事の中で引き継ぎ、生かして行こうと決心する。中川は僕と同じ77才、池多は僕より6つ年上の83才。自分の年をタナに上げて、そんなことを考える僕はお気楽なものだ...と苦笑するが、生来楽天的な人間なのだから、仕方がないか!  6月22日の日曜日、僕は池多の通夜で音羽の護国寺へ行く。そう言えばずい分前、彼が愛妻を弔ったのも確かここだった。中川は近親者だけの密葬をすでに済ませたと言う。いずれみんなで〝送る会〟を開くことになるのだろう。

週刊ミュージック・リポート