新歩道橋882回

2014年7月8日更新



 友人の奥野秀樹からアルバム「そして君を見つけた」が届いた。自作自演の歌も含めて6曲。ジャケット写真がライブの弾き語り姿でこじゃれたトーンの色あい。
  《そうか、最近そういうふうなんだ...》
 と思いながらレコードの棚に置いた。相変わらずせわしない日々、聞くのなら少し落ち着いた時間に―。
 6月21日土曜の夜、三木たかしの夫人恵理子さんを囲む会に顔を出す。彼が逝ってもう5年、親しかった人々と〝うわさ供養″でもしようという催し。銀座の和食の店で食事と酒、そのあとにバー「楽屋」で気のおけない会話を交わす。メンバーに元ビクター~東芝の角谷哲朗がいて、奥野の件を聞いたら、
 「いいですよ。ひと皮むけていい歌になってる。聞いてやって下さいよ」
 と、返事の声に力が入った。
 ミシェル・サルドゥの「年老いた新婚夫婦」に「プロポーズ」という邦題と日本語の詞をつけたのや1971年にニルソンがカバー、ヒットした「Without You」を「Sans Toi」のタイトルで日本語の詞をつけた曲。作詞作曲した「Je Chante~僕は歌う」「七月の感傷~広場」「再会記念日~マリー・クレールで恋をして」などが並ぶ。
 《ほほう...》
 と感じ入ったのは、確かに歌声に滋味が生まれていること。全体がシャンソンふうな語り口だが「愛のために死す」のサビ、高音が張り歌になるあたりには覇気さえあって、訴求力が強い。歌には人それぞれ年相応に、来し方のあれこれが隠し味としてにじむものだと合点がいく。
 奥野は僕の勤め先だったスポーツニッポン新聞社と石井好子音楽事務所が一緒にやった日本シャンソンコンクールの1972年の優勝者。翌年レコードデビューしたが、折から若者世界はフォーク・ブーム。彼もシンガー・ソングライターになりたいと言うから、
 「100曲書いたら再デビューさせる」
 と難題を吹っかけた。僕が三軒茶屋の西洋お化け屋敷ふうに住んでいたころで、当初通って来ていた奥野が住みつき、約束を果たしたからRCA(当時)からアルバム「アカシア通りの人々」として出した経緯がある。今回レコーディングした「七月の感傷」は、そのころから僕の一番お気に入りの曲だった。
 その後彼はスタッフ側に転じ音楽出版社の社長にまで取り立てられるが、若気のいたりでは済まぬ背信と不祥事を起こし、やむを得ず僕も謹慎!と出入り止めにした。その不始末に大病が重なって呻吟の日が長く、再起後は細々とプロデュース業をやり、また歌い始めたのは 2008年という。古傷に塩をすり込む過去をあえて書くのは、彼の歌声に悔恨や苦渋の匂いを嗅ぐせいで、曲によって再出発の気負いや喜びが、妙にすがすがしく響く気もする。本人が書いているが、「Sans Toi」を歌ったら「自分で言うのも変だけど、身につまされた」そうな。アルバムには、僕の知らない名前が制作協力者として並んでいる。重く辛い別れがあり、新しい出会いがあった証左か。
 プロフィールの最後に「1953年、富山県生まれ」とある。シャンソンコンクールでは、加藤登紀子に次いで二人めの東大出身と騒がれたが、そのころから僕は乱暴な弟分扱いをして来た。そんな奥野ももう還暦を過ぎた勘定。年がいつての物狂いとは思わずに、人生の痛みも背負った再スタートを、ともに喜びたい気分になる。何しろこちらは、70才からの舞台役者兼業で、
 「マジか? 何が不足でそんなことを!」
 と、友人たちがいぶかるのをしのぎ切っての老後である。奥野には、
 「音楽と歌が残っていて、よかったな」
 と言ってやりたいのだ。
 スポニチの音楽担当記者から〝はやり歌評判屋″になって、合計51年になる。年のせいか近ごろ聞くものは演歌・歌謡曲に偏っている。それも手伝ってか奥野アルバムがとても新鮮に聞こえた。
 《いずれライブでも見に行って...》
 と、久しぶりに一杯やる夜のことなどを考えている。

週刊ミュージック・リポート