新歩道橋883回

2014年7月25日更新



 往復の電車の中で、このところずっとスピードラーニング状態である。年が年だから今さら英語に取り組むはずはなく、ネタは大阪弁。7月19、20、21日に京都南座、30、31日に江東区文化センターでやる「曽根崎心中」(脚本、演出岡本さとる)の準備だ。何しろ貰った役が曽根崎新地の茶屋の主、天満屋惣兵衛である。中途半端な大阪弁で許されるはずがない。
 演出の岡本があちら出身の人だから、お手本をCDに入れてもらって、それを毎日聞いている。大ざっぱに言えば歌を覚えるみたいな作業で、メロディーにして言葉の起伏を覚え、セリフは歌詞、台本と首っぴきのところへ立ちげいこで振りがつく。あちら立てればこちらが立たず文字通りの三重苦。こんなことならこれまでに、大阪娘とねんごろになっていればよかったと歯がみをしても後の祭りだ。
 昨年11月に東京でやったものの再演である。主役・徳兵衛の歌手山内恵介に、
 「あれから8カ月、全部覚えているもんかい?」
 と聞いたら、
 「それがねェ...」
 と、のったりした答えが返って来た。醤油商いをする平野屋の手代で、じれったくなるような優柔不断が役どころ。けいこ場の私語もそのペースと口調が出るのか。
 相手役の女郎・お初は秋山エリサがやる。大和の国の百姓の娘が、曽根崎で評判の御職になって、徳兵衛との恋を貫く超勝気な役どころ。子供のころからテレビ、舞台、ラジオにモデルと、幅広く活躍したキャリアの持ち主だが、頭が下がるのはめちゃめちゃ多いセリフの大阪弁対応。どうやって覚えたんだろ? コツがあるのかな? それより何より、努力のたまものなんだよきっと! と、僕は彼女の笑顔を盗み見る。
 再演とは言え、秋山をはじめ役者がかなり入れ替わっているから、言わば再びの初演。山本陽子、瀬川菊之丞らベテランに、安藤一人、つまみ枝豆、髙羽博樹、鹿子かの子、それに僕が新参加の主な顔ぶれだ。うらやましいのは、徳兵衛の叔父をやる瀬川や色仇で大奮闘の髙羽が関西出身であること。つまりはネイティブだから、涼しい顔で出番を待つ。何しろ大阪弁はフレージングだけ真似ても気色が悪いと嫌われる。単語一つ一つのイントネーションが独特だから、「恋」は「鯉」の発音に似ていて「お気に召す」は「沖に召す」とやるとほぼ当たる。日本語をあれこれ音で転換するのだ。そのうえでセリフに感情移入すると、頭の中のイメージは全く別物がチラチラだから厄介千万。
 原作はおなじみの近松門左衛門の心中ものである。それを演出の岡本は、
 「新しい発見のある、面白いものに仕上げたい」
   と言う。その一例が枝豆を頭にした〝まがい〟の面々の登場。曽根崎の森で暮らす男女だが、神仏、精霊、鬼神と呼ぶには妙に人間っぽく、天人に見まがうことからこの名がつく。それが、踊ったりはやし立てたりしながら狂言回しをやる。そのうえお初の野心を成就させ、徳兵衛との恋をサポートする大忙し...。
 JR田町駅近くのけいこ場には、しばしば若々しい笑いがわく。山内の徳兵衛が今どきの草食男子ふうなら秋山のお初は肉食系。「そやけどなあ」ばっかりで煮え切らぬ徳兵衛に逆上して、時おり怒鳴り上げる態度の激変も面白い。プロフィールによれば秋山という人、コミカルな演技に定評があるそうな。
 僕は川中美幸一座で鹿児島弁と京都弁をやり、所属する東宝現代劇75人の会ではごく最近、秋田弁をやった。それぞれのけいこの間は飲み屋で京都弁ふうをやったり、ゴルフ場の一日を秋田弁ふうで遊んだり。けいこと本番だけでは心許ないせいだが、付き合わされる友だちはいい面の皮で、作曲家の藤竜之介など、
 「もうやめて下さい。ショットがぐちゃぐちゃになる」
 と悲鳴をあげたことがある。
 似て非なるものにはなるまいと、心に決めてはいつも実態はかなり怪しげだった。しかしだけど今度こそ大阪弁をマスターして...とやる気満々で、僕はいそいそとけいこ場へ通う。その間は流行歌評判屋稼業をしばし棚上げの不義理である。老後の日々是好日、どうぞ笑ってご理解をたまわりたい。

週刊ミュージック・リポート