新歩道橋886回

2014年8月25日更新



 話がたまたま、作詞家石原信一の件になったら、
 「よろしくと言ってました」
 と、作曲家の幸耕平がニコッとした。8月6日午後、渋谷のUSENスタジオで、幸と僕は昭和チャンネル月曜日の「小西良太郎の歌謡曲だよ人生は」の録音をしていた。彼と石原は日本音楽著作権協会の役員になっていて、この日幸は、そこの会議を終えてのスタジオ入りだった。
 「彼とは古いつきあいで...」
 と、話は市川由紀乃の新曲「海峡岬」に続いていく。幸は彼の事務所で、石原とあれこれ話し合いながら、この作品を煮詰めたと言う。幸がギターを弾き、歌いながらメロディーを固めていく。それに合わせて石原は歌詞の細部を検討、しっくり行かない部分の手直しをする。その逆で石原の詞にそぐわない部分は、幸が曲に手を入れたそうな。言葉と音の寄り添い方、呼吸の合わせ方、そんな手作業の中で、一つの歌とそれに託された思いが、深くなり、姿形が整っていったということか。
 「物を創る」という営為の、原点を見る心地がする。古いつきあいとやらが〝お友だちごっこ〟に止まらぬ気配があるのが何より。二人のプロが、その考え方や技を突き合わせる厳しさがあるなら、これはなかなかに、近ごろ珍しい〝いい話″ではないか! 
 別に作詞家と作曲家が、面突き合わせて苦吟する作業だけが、貴いと思っている訳ではない。作詞家が書いた詞を、ディレクターが仲介する形で作曲家に渡し、それだけで凄い作品が仕上がるやり方だってある。僕はその例を阿久悠の身辺に居て沢山見て来た。原稿用紙二枚ほどの歌詞が、彼の言う、
 「狂気の伝達」
 をやってのけるケースだ。一つの作品に絞って、例えば阿久悠と三木たかしが、話し合うことはあまりなかった。森進一が歌った「北の蛍」などは、阿久の詞を読むだけで三木は震えるほど高揚し、一気に曲を書いている。
 一流の才能と才能がスパークする瞬間! と言ってしまえばそれまでだが、それは表面的な見方でしかない。実は阿久と三木は、常日ごろから歌や歌づくりのあれこれを、十分過ぎるほど話し合っていた。大の男が夢を突き合わせる談論風発を繰り返すのだから、総論で意見は一致している。一つの作品については、これは各論の一つだから、阿吽の呼吸で事が進む。やっぱり大事なのは、作家同士のコミュニケーションであることに変わりはない。
 幸耕平の歌づくりに、僕が「いいぞ! いいぞ!」になったのは、彼が頑固なまでにそんな姿勢を貫こうとしているせいだ。ディレクターから注文が来る。OKすれば歌詞が届き、それに応分の曲をつけて送り戻す。そんな「発注」と「受注」の関係が、「流れ作業」になって長く続く歌社会である。同工異曲、ステレオタイプな歌だくさんの実態はもしかすると、そんな作業が当たり前になり過ぎたせいではないか? 歌書きたちの創意や情熱が、格闘する出会いが少な過ぎはしないか? それを主導するはずの、制作者の顔が見えなくなってはいないか? 
 たまたま幸と会い、彼の歌づくりに触れただけのことで、決して彼だけが頑張って正しいと強弁するつもりはない。しかし近ごろ彼はそのうえに、作曲の注文がくるとその歌手をどう生かせるかを研究。アイディアが浮かべば受けるし、メドが立たなければ断るとも言った。その間自問自答を繰り返す時間はほぼ一カ月で、これではどうしても寡作になるはずだが、
 「だから年に5、6枚のシングルが書けたら、それでいいんです」
 と笑うあたりがしぶとかった。
 歌謡曲系の出世作は大月みやこの「乱れ花」だが、あの歌にも作詞家松本礼児との長い切磋琢磨が、生きていそうだ。キャニオンのディレクター時代に松本が彼を起用したのが縁で、松本は作詞家を目指し、幸は作曲の勉強をして、試作をくり返したという。いわば同行二人の仲だった松本のその後の自死は、幸の胸に無念の傷を刻み込んだろう。僕もかつて松本と親交があり、自死の一因については言いたいことがあったが、この日はあえて、それには触れぬままにした。

週刊ミュージック・リポート