新歩道橋887回

2014年9月1日更新



 夏はやっぱり甲子園だ! と、テレビで高校野球を見る。今年は逆転劇だの超スローボールだの、若者らしいエネルギーや、独自の技法が目立って、ことさらに熱い。球児たちの白い歯の笑顔が随所にちりばめられているから、それぞれの自負や達成感もまぶしい。
 《阿久悠ならこの夏を、どういうふうに描くだろう...》
 と、感慨が時代を後戻りする。何しろスポーツニッポン新聞で彼は「甲子園の詩」を毎夏、28年も連載した。稀有の大河企画で、立案した僕はずっと、彼の相棒だった。
 阿久はきっと、自分の書きたい青春譜に似合う材料を、球児の一挙手一投足に見出そうとしていた。1日4試合、一投一打をメモしながら、自分の構想を具体的にするシーンを探すのだ。一方の僕はまるで白紙のまま、僕の心を動かす光景の出現を待つ。今日、こんな面白いことがあったよとか、こんな凄い奴が出て来たぞとか、書くものは目撃した現象次第だ。そこのところが「作家」の阿久と「取材者」の僕の、決定的な違いだったろう。同じゲームを見ながら、同じように伝えようとしながら、阿久が書いたのはあくまで「彼自身」で、僕に書けたのは、どこまで行っても球児である「彼ら」だった。
 甲子園の中継映像に、しばしばニュース速報のテロップが流れる。台風や局地的豪雨で河は氾濫し、交通は寸断され、土砂崩れで大きな被害が出ている。広島の死者、行方不明者は80人を越えた。そんな現実が、阿久との交遊の過去と交錯する。いつのころからか「異常気象」という熟語は影をひそめている。とするとこういう惨状、自然の狂気はやがて、よくあることになってしまうのだろうか? 
 このところ、昭和の歌にどっぷり浸かりっ放しになっている。ひとつにはここ数年、日光市に出来る船村徹記念館の準備にかかわっていてのこと。来年4月末に開館予定だから、作業は大詰め。この大作曲家の「人と仕事」の足跡を、映像や資料で顕彰、展示するのは大仕事である。そのうえ開館は決してゴールではなく、事業のスタートに当たるのだから、来館者を驚かせ、楽しませ、末長い興味深さを維持する必要がある。狙いは船村エンターテインメント・パークなのだ。
 星野哲郎記念館を作った時もそうだったが、展示物のうち活字表現部分は、僕の担当になる。黙っていてもそうなるのを、買って出るのは船村の知遇に応えたいせい。そこで僕は昭和二十年代からの彼の歩みとおびただしい作品、双方にかかわった人間関係のあれこれを、改めて渉猟することになる。頭の中ではいつも、船村メロディーが鳴っている。
 もう一つ、僕は近ごろ「昭和の歌100、君たちがいて僕がいた」(仮題)という単行本を書きすすめている。歌謡少年時代に心おどらせた歌から、取材記者時代の体験のあれこれ、はやり歌評判屋として歌社会に出入りする昨今までに出会った歌と人々などが登場する。戦後のヒット曲にからめて、自分史も辿るというあつかましい企画。幻戯書房という出版社の編集者が乗ってくれたから、喜び勇んで原稿用紙に向き合っている。この出版社は阿久悠の「甲子園の詩」28年分の全作を、まるで電話帳みたいな一冊にまとめてくれたところ。それが縁で僕の本も...となるのだから、没後7年、阿久とのつながりは絶えることがない。
 船村メロディーも含めて、僕が愛した戦後の流行歌が100曲以上、頭の中でガンガン鳴っている夏である。世の中はただごとならぬ右傾化の中で、昭和回帰ものが盛り沢山。僕に書けるものや書くものもまた、その流れの中の一つになるのだろう。年寄りの冷や水、鼻もちならない昔話屋と言わば言えである。船村記念会館と僕の本一冊で、僕は自分の70代に少し早めのケリをつけるつもりでいる。もうすぐやって来る花の80代、僕は改めて何かに向けて出発する気だ。役者稼業はもう少しの間お邪魔虫をして、さてそれでは一体何を始めようか? ものを書く以外に出来ることは、当面思いつきそうもない。生来の貧乏性、湘南葉山の海で、魚釣り三昧という訳にもいくまい―。

週刊ミュージック・リポート