新歩道橋888回

2014年9月6日更新


 
 「見に来てくれませんか!」
 と、歌手本人から電話がある。とても珍しいことだが、何だか嬉しい。そのうえにまだもごもごと、
 「で、あのォ、あいさつというか、乾杯の音頭というか...」
 と口ごもっている。
 「判った、判った、何でもやるからさ」
 と、僕は即答する。相手は天草二郎。8月23日夜、九段のホテルグランドパレスで「デビュー10周年記念ディナーショー」をやるという。
 《そうか、コツコツと歌い歩いて、あいつももう10年になるのか!》
 新曲「一徹」が出るのは知っていた。ど頭から船村メロディーとはっきり判る譜割り。それを体中をくねらせて辿り、彼らしい歌にするのが目に見えるようだ。ジャケットやチラシを飾る曲名の暴れる筆文字は鳥羽一郎、師匠船村徹の曲で、タイトルが兄弟子鳥羽の筆で、みんなが彼を盛り立てている。
 天草の歌手生活が10周年なら、彼と僕のつき合いは20周年になる。船村の内弟子として10年、僕は長いつき合いだし、何くれとなく世話にもなった。彼の内弟子暮らしは、運転手、料理人、付き人、マネジャー、秘書役等々と、船村の身辺で何でもこなした。僕が船村と会う話も、取り次ぎは全部彼。会って酒になり、話がはずむ船村との時間も、きっちり傍にいて、手ぬかり一つなかった。
 筋肉質の中肉中背、眉をきっとあげた利かん気の風貌、言動に体育会系のメリハリがある。何のことはない、芸名どおりの九州・天草育ちで、高校の生徒会長だか応援団長だか空手部主将だかが、そのまんま大人になったような、今どき珍しいタイプの好青年だ。
 気を使わせまいと早めにホテルに着いたら、天草は会場を走り回っていた。席順が混乱していて、それの手直し。
 「小西さんは、あそこ!」
 と、彼に指し図された僕は、天草の後援会長鍬田敏夫氏の隣りに座る。地元天草からやって来た会長が開会のあいさつ。その次が僕の出番で乾杯から食事になると、早口で段取りを説明するのも天草だ。
 巨匠船村の弟子だって、身の回りのことは全部一人でやる。それがきちんと出来るように育てられている。いい奴である。しかし、人柄が良ければ何とかなるほど、この世界は決して甘くない。それなら逆に、ろくでもない奴でも、運さえよければ何とかなるかと言えば、金輪際そんなことはない。歌には必ず歌っている奴の人間性が出る。ファンはそこのところを、ちゃんと聞き分けるのだ。だからいい奴は、人間味と相応の力量で、歌社会のあれこれをしのいで行く。いつか必ずいい風が吹くことを信じていけばいいのだ。
 師匠船村の慧眼が彼を支える。デビュー曲が「天草かたぎ」で次が「天草純情」間に「酔いどれ数え唄」をはさんで、今度が「一徹」である。カップリングには「出世払い」や「ふるさと自慢」などがあり、「さだめの椿」も天草の歌。みんな出身地天草と彼の朴訥なキャラ、ふるさと思いがからめてある。デビューの発表会に、僕は天草へ行った。その土地の風物をしっかり見聞きして来たが、何よりも心強いのは天草の人々の血の熱さ。それが天草二郎10周年の背を押す風になる。作品こみで地元とその人脈が生きる仕掛けだ。
 10周年記念のステージで、天草は手持ちの全曲を歌い、師匠の作品「男の友情」も歌った。二部で伴奏、彼の後押しをしたのは蔦将包、斎藤功ら仲間たちバンドのピックアップメンバー。船村のステージでおなじみの面々が楽しそうな顔をしていた。
 僕は昭和三十八年に初めて船村と会い、以後私淑して弟子を自称、やがて許されて一門の一人となる。だから先輩弟子の北島三郎はさんづけだが、鳥羽一郎以下は弟弟子に当たるので呼び捨てで付き合う。静太郎も走裕介も、船村門下はいい奴ばかりだ。ことさらに今回は天草に熱いのだが、僕のヨイショは船村一門に限りはしない。いい奴で力があって、コツコツ一生懸命に歌を生きるタイプはみんな好きなのだ。そのせいだろう、功なり名とげたスターたちよりも、歯がみして空を仰ぐ無名の彼らの側に、友人はやたらに多いのだ。

週刊ミュージック・リポート