新歩道橋889回

2014年9月19日更新



 何年ぶりになるだろう。やっと田辺エージェンシーの田邊昭知社長に会った。8月25日、明治記念館で開かれた中村美律子と増位山太志郎の新曲発表会。二人のお抱え主・ゴールデンミュージック市村義文社長がやった催しだ。一見関係なさそうな田邊社長やバーニングプロの周防郁雄社長が姿を見せるのは、市村氏の縁とデモンストレーション。
 彼に言わせれば、芸能界マネージメント勢の長男が田邊氏で二男が周防氏、三男のやんちゃ坊主が市村氏という間柄。それじゃもう一人の助っ人イザワオフィスの井澤健氏は何? と聞いたら、おじ貴分に当たるそうな。そんな人々とメインのテーブルに集まって、僕は田邊さんにご無沙汰の詫びを言った。
 「俺たちは偽物かい?なんて、スポニチに訪ねて行ったのは、25か26才のころかなあ」
 田邊氏の一言がグッと来る。僕がまだ駆け出し記者のころ、エレキブームがあって外国バンドがよく来日した。その前座ふうに共演するスパイダースに、観客から、飛んだ罵声が
 「偽物ひっこめ!」
 で、それにムッとしたスパイダースのリーダー田邊氏が、メンバー全員を引き連れて、僕の勤め先へ来た。そんな昔を彼ははっきり覚えていたのだ。
 「そんなことはねえよ。客の舶来礼賛なんて、すぐに消える。実力はちゃんと認められるよ」
 と、僕はそう答えた記憶がある。
 やがて来たグループサウンズ・ブーム、田邊氏はその支柱となり、僕は日劇やジャズ喫茶のスパイダースの楽屋に入り浸りになる。新聞記者も芸人と同じで、
 「教わるよりは盗む」
 のが基本。根っからの演歌育ちだった僕は、そこで硬軟山ほどのことを学んだ。だから田邊氏に恩義も義理も強く感じているのだが、この実力者は昨今、歌世界にあまり出回らない。パーティーには顔を出さないし、ゴルフコンペにも出なくなり、さりとて事務所で貴重な時間を割いてもらうのも気がひけた。その挙句のご無沙汰だった。
 「ねえ、改めて電話するから、会社のそばで蕎麦でもおごってよ」
 と、その夜は別れたが、それからがまた大変で...。
 八月末、亡くなった作詞家吉岡治の長男天平氏から、吉岡夫人久江さんの病状が重篤との電話が入る。万一の場合の相談で、僕は早速花屋マル源の鈴木照義社長に連絡、手はずを整える。中山大三郎の葬儀を手はじめに、星野哲郎、三木たかし、小澤音楽事務所の小澤惇社長、僕のおじ貴分の名和治良プロデューサーなど、僕がかかわった沢山の不祝儀は全部彼をわずらわした。もちろん吉岡治の場合も例外ではなく、鈴木氏は今や小西会の有力メンバーの〝スーさん〟だ。
 吉岡夫人久江さんが亡くなったのは9月2日
 「これは仲町会葬だぞ」
 と、僕は弦哲也、四方章人ら大勢の歌仲間と遊ぶこの会の永久幹事・朝倉隆を動員する。吉岡がメンバーで、その没後は久江さんが顔を出し、準会員みたいになっていた。小石川の伝通院で6日が通夜、7日が葬儀。僕は4年前の吉岡に引き続き、久江さんも葬儀委員長である。それが歌社会各ジャンルへ伝わり、あちこちから心遣いを受けることにもなった。「釈尼久慈」の戒名は長男の天平氏がつけ、祭壇のデザインは孫娘のあまな君がした。彼女は2月の明治座、松平健・川中美幸公演で、僕の付き人を務めたから、あちこちに知り合いが増えた利発な学習院大一年生だ。
 気がかりだった田邊社長への改めての電話は、その最中にかけた。何と代官山の小川軒に招かれたのは、葬儀の翌日の9月8日の夜。思いがけないご馳走に興奮気味の僕は、ワインも白赤の順でずい分飲み、一人でしゃべりまくった。ここ8年ほど続く役者体験のあれこれを、近況報告のつもりである。ニコニコ聞き役をしてくれた田邊氏に、今度は会社へ訪ねて行く約束をした。
 とは言え、9月は雑甲山ほどで、10月は芝居のけいこ。11月4日から9日まで、深川の江戸資料館ホールで東宝現代劇75人の会公演をやるから、青葉台の会社へ行くのは11月中旬になるか。ま、それにしても、会わなければいけない人にやっと会えて、僕は胸のつかえがおりている今日このごろである。

週刊ミュージック・リポート