新歩道橋905回

2015年3月8日更新


 天国にはどうやら〝73会〟というのがあるらしい。メンバーは伝説のプロデューサー馬渕玄三氏と往年のヒットメーカー市川昭介。それにこのたび三島大輔が加わった。共通点は享年の73。三島は2月22日、がんとの長い闘病の末に亡くなった。その通夜が営まれたのが24日、横浜・瀬谷のメモワールホール瀬谷。関係者が口を揃えて三人の名を挙げた。73才で逝ったのはたまたまの偶然だろうが、歌づくりの血をつなぎ合った親交が、彼らにはあった。
 新潟・長岡の三島神社に、全国の神々が集まるという夜がある。
 「それは出雲の話じゃないの?」
 と取り合わぬ僕にムッとしたのが三島。ある秋、車で迎えに来て、現地へ連れて行かれた。巨大な神社の境内に、おびただしい人々が集まり、仮眠所が用意され、歌手たちが歌を献納するイベントつきの大規模な催し。
 林立する百匁ローソクが夜空をこがした深夜、そのはるか向こうの宙空に、火の玉が飛び交うのを、僕は確かに見た。
 「ほら! ほら!」
 と指さして、それが神々の証しだと僕に教えたのは、三島の愛弟子の歌手真唯林だった。
 三島の初期の作品に「帰れないんだよ」がある。星野哲郎の作詞だが、当時の彼の遠距離恋愛ソング。相思相愛の朱実さん(後の星野夫人)と、郷里の山口・周防大島と東京で、離ればなれで暮らした時期の胸の内が描かれている。
 〽秋田へ帰る汽車賃が、あればひと月生きられる...
 と、売り出し前の貧乏ぐらしが赤裸々、それを照れてか「周防大島」が「秋田」に置き替えられていた。
 作曲した三島はそのころ、新潟のキャバレーでピアノを弾いていた。作曲名は臼井孝次とあり、本名だとばかり思っていたが、訃報は「臼井邦彦」だったから、これもペンネームか、芸名か。この作品は、津軽ひろ子という歌手が創唱したが、ちあきなおみがカバーして脚光を浴びる。三島はその後、件の神社にちなんで三島大輔を名乗り、山本譲二の「みちのくひとり旅」で作曲家としてブレークした。先代宮司の知遇に応えたい一心だったと聞く。
 通夜の席に、馬渕夫人久江さんと娘の尚子さんも居た。
 「あのころの73才と今の73ではねえ。もう来ちゃったのかと、主人も苦笑いしてるでしょうよ」
 と久江さんがしみじみとする。かたわらで三島の千枝子夫人が、このところの闘病ぶりを話す。抗がん剤は「あらぬことを口走るそうだから」と嫌い、がんがあちこちに転移、入退院を繰り返したあとは「病院は嫌だ」と自宅療養を選んだ。最期は子供や孫たちに看取られて、静かに逝ったという。僕が通夜に飛び込んだのは、仕事の都合と土地不案内から、午後7時半ごろ。まだ去りがたい顔の作曲家叶玄大、岡千秋、作詞家の喜多條忠、編曲の丸山雅仁らが居た。みんな馬渕や市川、三島と縁が深かった面々だ。
 馬渕玄三7回忌は叶の相談を受けて、裏方と司会の両方で手伝った。あれからもう10数年の年月が経つ。〝演歌の竜〟のモデルになった彼には、駆け出しの記者当時から、歌づくりのあれこれをずいぶん教わった。神出鬼没、めったに会社に居ない人だから、レコーディングの日程を調べ、密着するのに骨が折れた。
 そんな取材のおりおりに出て来たのが星野哲郎と市川昭介の名である。この二人は畠山みどりの「恋は神代の昔から」や「出世街道」でブレークした。馬渕プロデューサーの狙い撃ちの異色作だった。市川にもいろいろ教わった。後年、プロデューサーを兼業して、五木ひろしのアルバム「おんなの絵本」を作った時、「小樽のおんな」と「憧れ」の2曲を頼んだのが最後の仕事。五木の40周年記念作品で、レコード大賞のベストアルバム賞を受賞、市川にも喜んで貰った。
 三島の通夜・葬儀のメモワールホールは一昨年の8月、彼の愛弟子で台湾出身の歌手真唯林を葬ったところだった。あの時三島は病院を抜け出して来て喪主をつとめた。薬の副作用で変色した手を手袋で隠し
 「やがて俺も行くから」
 と、途切れがちだったあいさつが、今では辛い思い出のひとつ。僕はまた一人、年下の歌書きの好漢を見送った。
週刊ミュージック・リポート