新歩道橋910回

2015年5月6日更新


〽こんな名もない三流歌手の、何がおまえを熱くする...
 そんな歌い出しの「友情」と言う歌が好きだった。歌っているのが無名の歌手だから、ことさらにグサッと来た。新田晃也という奴の自作自演。15才で故郷を離れた男の、歌だけが土産の里帰り、それを迎えた幼な友だちの、変わらぬ眼差しと温かい握手が歌われていた。演歌のシンガー・ソングライターが吐露した、本音の歌だったろう。
 新田は集団就職列車に揺られて、東京へ出た。後にした故郷は福島の伊達市。本名は聞いたことがあるだろうが、忘れた。芸名の新田晃也は、生まれ育ったあたりの地名で「晃也」は実は「荒野」だという話の方が記憶に残っている。彼の愛郷の思いに触れた気がしたせいだ。振り返ればほろ苦い青春の曲折があって、僕が知った新田は、銀座の名うての弾き語りになっていた。通称が「ポール」2、3軒のクラブをかけ持ちする歌巧者だった。
 一時、脚光を浴びかけたことがある。阿久悠が初期に全国の港町を訪ね歩き、エッセーふうなナレーションも自分でやったアルバム「我が心の港町」で、全曲を歌ったのが新田だった。説得力のある唱法と、存在感のある声味を評価して、みんながメジャーデビューをすすめた。阿久悠や音楽を担当した三木たかし、お仲間の演出家久世光彦らが口を揃えたが、新田は固辞して、巷で歌うことを選んだ。45年ほど前の話だ。
 そんな〝みちのく気質〟の意地っぱりが、今年、歌手活動50周年を迎えた。71才になったが、独特の美声は衰えず、年の分だけ歌に慈味が加わっている。記念曲「母のサクラ」を徳間ジャパンから出し、5月10日にはなかのZERO大ホールでリサイタルをやる。乞われて僕は推薦コメントを書いた。「巷の実力派」「無名の大歌手」と、大仰な表現だが、実感である。こういう場合大てい、僕は本人のごく近い将来の完成図を言葉にする。恐るべきことだが70才を越えてなお新田には、もうすぐそう言い切れる境地になるノビシロがあるのだ。
 「俺たちはいつごろ会ったんだっけ?」
 長いつきあいの相手に、僕はよくそう聞く。時折会って話し込むのは、双方の〝現在〟が主だから、過去はおぼろになるものだ。
 「45年前、浅草公会堂の春日八郎さんの楽屋」
 新田は苦笑いしながら、そう答える。7才年上の僕よりは、記憶がしっかりしている。長いこと作詞、作曲にこだわって来た彼は、今度の新曲も含めて何作か、組んでいるのが作詞家の石原信一。石原と僕とは、彼が大学を出たばかりのころからのつき合いだから、
 「お前ら、いつからそういう仲になったんだ?」
 と聞いたら、二人は、
 「あんたの紹介じゃないか!」
 と、口をとがらせた。そう言えば...で思い出すのだが、数年前にシアター1010で星野哲郎トリビュートのショーをやった時に、石原に構成を頼み、新田に何曲か歌って貰ったことがある。新田が伊達なら石原は会津若松の出身で、福島県同志、ウマが合うのかも知れない。そのせいか石原は新田に、ほぼ本音、実体験の詞を書いている。 ?こんな名もない三流歌手の...
 に戻るが、僕はしばしば新田に「三流のてっぺんを極めろ!」と言い続けている。テレビによく出て、全国的な知名度を稼ぐ歌手がもし一流だとすれば、それをおびやかす三流の、意地と芸と覇気があったっていいではないか! 何を偉そうに...と思われる向きもあろうが、僕もスポーツニッポン新聞で、三流の意地を貫いて来た。僕らの先輩の多くは、昭和30年代ころから、朝日、毎日、読売などの一般紙を一流と見たて、政治、経済、社会と無縁の媒体の現場で、肩をすくめていたものだ。
 「それなら、俺たちがやってやろうじゃないか!」
 と、僕らは逆に三流を旗印に胸を張った。政治や経済や社会が問題ならと、そんなネタに手も広げて、スポーツ紙のてっぺんを手にした。
 そういう訳で新田と僕は「三流同志」である。5月10日中野へ、僕はステージで胸を張る万年青年の新田晃也を見届けに行く。
週刊ミュージック・リポート